10日間瞑想×ボディワーク 40代後半 男性

通常のレースにおいて、スタートとゴールの間には空間的な距離が存在する。
故に、競技者は一刻も早くスタートから走り出し、ゴールを目指さなければならない。

しかし、瞑想というレースにおいては、スタートとゴールの間に(通常の意味での)空間的な距離は存在していない。
故に、競技者はスタートから走り出し(逃げ出し)てはならない。

やるべきことは、スタート地点である此処に立ち続け、それを全力で感じ味わい尽くすこと― それを可能とするための認識の分解能(解像度)をあげる訓練を通して、その奥底へと(ズブズブと)入っていくこと、のみである。

それによって、スタートとゴールの間にあるかのように見える心理的な距離/障壁が消えたとき、スタートが、そのままゴールであったことに気づく。

そこに瞑想という実践の面白さが存在する。

1日目 18日(土) 現地入り

断食1日目。
概要説明と基本の瞑想法を習う。
身の回りの環境を知る。

2日目 19日(日)

断食2日目。
与えられた課題に試行錯誤。
手の瞑想、歩行瞑想。

3日目 20日(月)

断食3日目。
ありのままの感覚の気づきはじめる。
アタマが冴えてくるのがわかる。

4日目 21日(火)

1日/2回の食事瞑想開始。
四肢の感覚が研ぎ澄まされくるのがわかる。

5日目 22日(水)

入浴1回目。
ボディワーク1追加。
動きの要素分解に気づく。

6日目 23日(木・祝)

ボディワーク2と3追加。
習慣のラジオ体操第1で腰を痛める。

7日目 24日(金)

ボディワーク4追加。
ややマンネリ化してきており、さらなる集中力の高まりがみてとれないとのご指摘。

8日目 25日(土)

新しい発見が少なくなっていることへの焦り。
ネガティブな発見もアリ。
感謝の気づき。

9日目 26日(日)

入浴2回目。
早朝に、不随意4拍の呼吸を観察。
集中次第で、この世界が全く違って感じられることに気づく。

10日目 27日(月)最終日

集中力を挽回する技術に気づく。


1.

もうかれこれ10年以上前のことですが、それまでの自分には十数年の武道経験があり、その修行過程で仏教に関心を持つことがありました。

仏教においての「悟り」とは、「まよいが解けて真理を会得すること」とあるようです。

僕の場合、そこまで至ろうと思ったわけでもなく、「これからも通過しなければならない問題に対処するための技術を身につけておきたい」と単純に思ったことが発端です。

周りの方々に「瞑想研修に行く」と言うと、宗教上の理由や心理的な問題、自己啓発的なもの…と受け取られているようでした。

それよりも「技術論に特化した学習」という自分の動機の方がむしろ少数派なのだろうか?と感じていましたが、研修が明けた今では、自分なりのその考えに確信が持てるようになりました。

つまり、ランニングや自転車と同じく興味の対象であり、その原動力は知的好奇心ともいえます。

しかし、その安易さが、「よい面」と「そうでない面」に、それぞれ作用しているということを修行中に知ることとなります。

2.

前置きはこれくらいにして、瞑想研修は各地で行われています。

自分の調べた範囲では、「10日程度の時間を適切な指導の中で受けるのがいいのだろう」との認識までは至りました。

そして勤務先や家庭、個人的な理由とタイミングなどから、移動ロスの少ない広島県内、宮島の研修所に、思い切ってお願いすることとしました。

原則マンツーマンで行われるため、申し込みには自分の履歴や動機などを示す必要があり、指導者はそれを元に、その適性や研修内容などを決められているようでした。

結果、先述のような「技術に特化した瞑想法」と、趣味のトレイルランニングに関連付けできる「ボディワークの基本」をミックスしたかたちの研修を受けることができました。

このような環境と瞑想法は、この先当分経験することのできない質の高いものだったと思います。

3.

ここでいう「環境」とは、off-line.off-gridで一切の外部情報を絶って、生活の煩わしさを極力抑えて静かに過ごしながら、集中を高められることです。

しかも10日間連続というのは一般的には長いと感じるかもしれませんが、例えるとテスト飛行機が離陸して飛んでいくような過程を踏むため、短すぎず長すぎないという印象でした。

「技術に特化した瞑想法」とは、指導者である船江さんのご経験により、臨済禅の力強さ+ヴィパッサナーの繊細さをベースに、マハーシ・メソッドの枠組みのなかで展開させる、という独特の、言わば“いいとこ取り”の指導でした。

自分のような超初心者にもわかりやすい比喩表現でご説明いただけるうえに、それぞれの方法論に継ぎ目のない関連性がみられ腑に落ちました。

とはいえ、これまで知っていた一般的な瞑想法― 姿勢保持や数息観に― まったく言及されないことには少し驚きました。

習った方法は極めて単純でした。

まずは静止して身体の部位の微かに感じる脈動「今・ここ」に集中します。

形としては、その感覚に常に「ドクン・ドクン」などオノマトペでラベリングを行うこと。
そして、そこに留まり続けたり、動きの中でも感覚に集中し、「触れた、感じた」などラベリングし続けること。

それは研修の始めから終わりまで一貫していました。

部位的には、手首→手合わせ→指先と、集中力によってより微細な感覚に気づくよう常に指導されます。

はじめは手首の脈動を追うだけでも5分と保たない状態なので、目を瞑る、耳栓をするなど、他の感覚を遮断することで試みます。

しかし、意識の働きはどうにも止めることが困難でした。

頭の片隅でのスマートフォンに届いているであろう通知のこと、休んだ仕事の状況や振り返り、残してきた家族の気持ち、この瞑想法についての考察に至るまで、「今・ここ」を感じるには不要な思考が次々と浮かんでは連鎖し、気づけばそれに巻き込まれてしまっているのです。

次々と浮かぶ雑念を次から次へと手放していく様は、射撃ゲームで次々と現れる敵を撃ち殺していくのに似ています。

手のひらの脈動はさらに微細で、自分にとっては常に感知できるものではありませんでした。(帰って何人かにヒアリングすると、すぐに感じられる人もいると知りました)

それを数時間かけて、ああでもない、こうでもないと試行錯誤するうち、または断食や睡眠負債の解消(断食中の3日間はとにかく睡眠をとるよう薦められました)が進むにつれ、頭の中が冴えると共に、やがては四肢の微細な感覚も感じられるようになってきました。

夜中に夢の中で、手を合わせ「この感覚こそ自分っ!それ以外は概念!」と叫んで目を覚まして独り大笑いしました。
この言葉は心底自分のなかから湧いてきたのですが、発した瞬間に誰かのネタだと思い出したからです。
ただ本当に腑に落ちたのです。

日に2回程度、指導者と対面で課題のレポートを話し合い、それ以外は課題の試行錯誤が続きました。

4.

ランニングのように成果が数値に現れることがありませんが、取り組んだ時間だけその努力は報われるようです。
延べ100時間までとはなりませんが、それに近い時間を瞑想に費やしました。

その中でいくつかの区切りとなるような、これまでにない体験をしました。

そのひとつは、毎日一度、歩いて3分くらいの海辺まで歩行瞑想で出かけ、そこで岩に腰掛けて瞑想をしていたときのことです。

瀬戸内の穏やかな波音と対岸の街並みからの暗騒音、2月にしては暖かい昼下がりの陽光と反射のきらめき、そよぐ風と冷感、遠くの漁船、上空を鳴きながら横切る鳥、それらはとても立体的で、本当に鮮やかに感じとることができました。

そして、それらを「見た、聞いた、感じた」とやっているうちに、余計な意識が全く働いていないことに気づきました。
周囲に集中したり、再び手の感覚に戻したりと、自由に行き来できるようになっていました。
静かな場所に比べて、騒々しいくらいの環境が、より「集中できる」という感覚に緩やかに気づいた時間でした。

その後、その体験に自分が満足していることを察した指導者に、これにはまだまだ先があるのだから、ここで油断して腰を下ろさないように、との指摘を受けます。

他には次のような、震えるように驚愕した気づきもありました。

手の瞑想に集中し、その脈動を感じることを壊さないように少しづつ腕を動かすと、普段では真似できないような微細かつ小刻みな動きをし、その振動とも思えるようなフィードバックも感じとることができました。

骨格と筋肉の細かな動きは音で表現すれば「パキパキ」という、まるで虫のような動きに分解されているのです。

おまけにその奇妙な体験はまぐれではなく、繰り返しダブルチェックが可能であることで、さらにこの修行の深さに気づかされるのでした。

しかし、そのような新たな気づきも次の瞬間には、過去の腐ったもののように変質します。

理屈では分かっていても、成功体験に執着し、そのこだわりを手放せたとしても次には「考察」という仲間のふりをした意識が、いつの間にか背後から肩を組んできている…。

限られた時間と資源のなかで、このままでは「知的好奇心」という動機だけでは乗り越えられないことを痛烈にご指摘いただきました。

たとえれば、やかんで沸かす水の沸騰が悟りとすれば、今一歩沸き切らない状態です。
この“わからずや”をとことん叱咤激励し、指導してくださった船江さんには感謝しかありません。

5.

断食期間に充分な睡眠を取ると、その後必要な睡眠時間は2〜4時間になりました。
瞑想できる時間は増えますが、その純度と集中力を保つ工夫も必要になります。
やってみて分かったことですが、高い集中力の持続時間はせいぜい30〜60分で、崩れてきたら別の課題に取り組んで気持ちを入れ替えるか、意識を失うように眠ってしまうかのどちらかが効率的です。
ただし中途半端に眠ってしまうと頭が冴えているせいか、ものすごくカラフルでリアルな夢を観てしまいます…というより脳に「観せられる」という感じです。
事実、記憶では子供の頃にみたような心躍るような情景の連続で、意識が乱れるようなものを連夜…という感じでした。
これが「脳」というひとつの臓器の本質かもしれないと思ったほどでした。

調子のよいとき、そうでないと感じる時に自分をどのように客観視し、さらに集中力を高めることができるのか。
ここでついに、動機や置かれた状況によって超えなければならない壁が見えてきたように思います。

正直なところ、今回の研修では想定していなかった状況に直面し「ここまで来れたのだから、このままでもいいのではないか?」という意識も働いていたのも事実です。
経験豊富な指導者にとっては、自分の考えていることなど手にとるように分かったことでしょう。
研修期間をあと2日程度残したところである提案が示されます。

「このまま水平飛行するか、さらに高みを目指すのか」このことには己に決定権があるのですが、とてもつらかった。
なぜならゴールラインや目標値がないからでしょうか。
分相応の力加減、思い込みによるセーブをすることはあるとはいえ、取り組んだからには出来る限り出し切りたいという性分がありつつも、どこまで到達すればよいのか検討がつかない状況に意識が右往左往します。

それからの正確な順序は曖昧ですが、動機を見直すと共に感情が昂り、縁起、先祖や親族、友人等に対する感謝の気づきを見直すようになっていました。
その時はどうしようもない意識の変化だったとしても、やや納得がいかない過程でした。

トレイルランニングに夢中になるのは、体力や意識が枯渇しているはずなのに自然と足が前に出ることを体験したからです。
自分のチカラだけではない何かに突き動かされる感覚は確かにあります。
それには言葉として様々な理由づけはしてきましたが、実はぴったりとくる言葉は未だ見つかっていませんし、見つからないかもしれません。
先述の提案に対しては難しい方を選択することにしました。
そして、その頃からやや言葉が出にくくなってきたように思います。

6.

そんな自分にも、最も集中が高まった瞬間は追い詰めた先に訪れました。

9日目を迎えた朝のこと、布団の中で目を開けた途端、自分の寝息を感じました。
それから4拍観察。

頭が冴えきっていることに気づきました。

今朝は何かが違う?
外のトイレにいきたいと思い、その集中を壊さないようにゆっくりと起き上がりました。
その日、広島の外気温は氷点下。部屋に置いた手元のデジタル温度計も0.1度。
しかし、その寒さが不快感に繋がらない。

外へ出るために扉を開けると全身に浴びた冷気と眼前の景色、というより朝の光そのものを感じた途端、涙が堰を切ったように溢れ出ました。
そして、外履きで霜柱をザクザクと音を立てて踏みながらゆっくり歩いている間もその状況は変わらず、ひたすらにその感覚に感動し続けました。

これからの日常生活において瞑想を習慣化することは可能なのでしょうか。
静かで落ち着いた場所を確保し座して瞑想に耽ることは、子育てが一段落し、仕事でも辞めない限り難しいでしょう。

しかし、船江さんは言います。
「決めた時間の瞑想だけ集中し、それ以外は素に戻ってしまっては意味がない。掃除をしていても、皿洗いをしていても、仕事をしていてもあらゆる動きは瞑想化できる」全てに気づきを入れていくこと。

たとえば過去の瞑想道場のご経験では、初心者(瞑想のできていない人)のたてる物音は、足音、障子の開け閉めに至るまで、いちいちが耳障りなものなのだそうです。

毎朝道場の床を歩く足音から修行者の調子が窺い知れるのは常識であるというお話をいただいた時、自分もかつて武道で師匠に仕えていた頃を思い出し、今の状況を振り返るとやや気詰まりを覚えました。

7.

特別な環境で、煩雑な物事が取り除かれているからこそ、とことん集中できるのです。
修行中でも、会話や考察を入れたり、着替えやトイレ、歯磨きなどで素に戻った時は、心が泳ぎはじめます。

たとえば、陽の差し込んだ部屋にチリが舞った状況を思い浮かべると、そのチリが収まるのを観察しながら時間をかけてじっと待ちます。
広い敷地に長い縄で繋いだ馴れてない馬を放ち、それを少しづつ距離を詰めて大人しくさせていくイメージもいいでしょう。
どれも心の置き場所を決めて状況を観察しながら立て直しを図るしかありません。

6日目の朝、習慣にしているラジオ体操第1の腰捻転で数ヶ月ぶりの軽いギックリ腰になってしまいました。
窓のカーテンの開け閉めに一瞬息が止まるような鈍痛が走る症状です。
数年前から何度も悩まされていた挙句、トレーニングとケアでかなりの気を使っていただけに、完全に不意をつかれました。
前日のボディワークで胴体を緩めていた状態にもかかわらず、いつも通りの気の抜けた動きをしたから… というのがその原因でした。

指導者に報告すると「ちょうどいいですね。それを観察対象にしてみてください。治そうと思わず、その痛みを見つめ、観察し、味わい尽くして、集中力で温めて緩めるんです」と。
確かにその通りやってみたら、24時間で明らかに痛みが半減し、48時間後には痛めたことを忘れるくらいになっていました。
これまでの経験からはあり得ないことでした。
いつもならきっと、友人の鍼灸師に泣きついていたことと思います。

最近ではあまり風邪を引くことがなくなりましたが、高熱などで寝込んだ時は自分の身体の不快な部分をスキャンしていました。
そんな状況に似ている、瞑想の集中とは実は身近なものなのです。

8.

最後になりますが、人間には備わる6つの知覚(目、耳、鼻、口、皮、脳)によって、世界を認識しています。
人間をテレビに例えると、その6つのダイヤル式チャンネル(知覚)を巧みに切り替えているのが実情のようです。
複数のチャンネルを同時に使っているように感じますが、素早いので残像(イメージ)を追っているだけで、実際は1つずつしか知覚できていません。

たとえば、食事をしながらの会話シーンで、知覚のどれかに集中すると、残された知覚が希薄になる場合のように。
また、6つそれぞれのチャンネルにミキサーのようなボリュームが備わっているようです。
それは、同じ「みる」でも自動車の運転と絵画をみるときのような違い…。

人間は、動物と違ってそれらの知覚を人工的に制御できるのです。
これが、はじめに述べた、この瞑想研修が技術論であるということの理由です。

知覚を奔放に使い倒していれば、注意が散漫になるかもしれません。
それは人間をPCに例えると、必要ないアプリをたくさん立ち上げてメモリが不足し挙動が乱れることのようなものかもしれません。
それを知覚の訓練によって制御し(脳の筋トレと呼んでもいいでしょう)気づく深さを変える、すなわち「世界が変わる」となります。

ただし、その知覚を手に入れたとしても、それが自分にとってよいのか、そうでないのかは別の話です。
しかし、そこで厄介者なのは「脳」(意識・イメージ)でしょうが、この最大の敵の対処方法は未だよくわかっていません。
ただ、今回はそのクセや、コントロールする方法を知ることができたのが大きな収穫なのです。
とりあえず、この「脳」という1つの臓器と死ぬまで付き合っていかなければならないのですから…。