異-教義間での(調停不可能なレベルの)泥沼的論争が、実は、双方が依って立 つ理論の基本語彙の概念規定の違い(と、そのことに対する無自覚)から生じている、と云うのは、よくあることである。
たとえば、「神はいるか/いないか」と云う議論において、
「神とは、一神教的な人格神(意志を持った主体者)のことである」と云う前提で話している人と、「汎神論的な、宇宙=自然=神」と考えている人の間では、まず最初に「神」の定義― 神という言葉で、具体的に何を思い浮かべ、何を指し示しているのかのすり合わせ― を行わない限り、その会話は不毛である。
あるいは多くの場合、その「定義」の作業を行った時点で議論のほとんどは尽きている、と言ってもよい。(もし、その作業が成り立つレベルでの対話や相互理解が可能であるならば)
これは、同じ言葉を、それぞれが逆の意味(概念内容)として使っている場合に起こる問題である。
次に、もうひとつのパターンがある。
違う(逆の)言葉を、それぞれが(気がつかないまま)同じ意味(概念内容)として使っている場合である。
「神はいる(存在する)」と主張する人と、「神はいない(存在しない)」と主張する(ドーキンスのような)人との間では表面上の意見の一致は見られない。
しかし、「神はいる」の人が、スピノザ的な理神論/汎神論的な神、あるいは進化生物学・現代宇宙論を経由し自然主義化された神概念を持っており、この物理的な宇宙こそが神の身体である、あるいは数学は神の思考(脳内プロセス)である、と考えている場合、
あるいは、「神はいない」の人が否定している神が、伝統宗教が持つ「信者のお祈りに答えて、雨を降らしたり槍を降らしたりしてくれる、お父さん的な神様」であった場合など、互いに歩み寄る余地は大いにある。
この場合にも、「貴方が言っている神とは具体的に何であり、どのような存在なのか」の言葉による相互理解の試みと再定義の作業は必要である。
それがない限り、果てしのない「神々の闘争」は続く…
以上のような、議論のくい違い・かけ違いは、過去、伝統仏教各派の間で行われてきた宗論にも見てとることができる。
以下、私にとって興味深い(行き違いの二種のパターンを代表する)宗論を紹介してみたい。
小乗仏教(部派仏教)と大乗仏教との間で行われた論争― 代表的なものとして「法の自性/無自性」を巡る議論は、「自性(実体)」という同じ言葉を、それぞれ互いの理論体系において違う意味で使っておりながら、そのことを理解していないパターンの典型で、「現象界に自性(実体)は有るか/無いか」を延々議論したが、何の生産的結論へ至ることもなかった。
中国仏教(禅)とインド・チベット仏教との間で行われた「サムイェーの宗論」の場合には― 「頓悟と漸悟」「教(知的理解)と行(実践)」「戒と定」「定と慧」など多くのトピックを巡って議論の応酬はなされたが― その多くは「相手の理論体系において、自分たちと逆の言葉で同じ事象を表現している」ことに気づかず、互いに「なぜ相手は、こんな分かりきったことにケチをつけて絡んでくるのだろうか、これでは揚げ足取りの議論のための議論ではないか」とウンザリしているように見える。
「頓悟と漸悟」という論点で言えば、これは現代的に解釈すれば「変化は瞬間的か、それとも(準備の)時間をかけての持続的なプロセスか」、あるいは「本質的な変化は一度きりか、それとも複数回あり得るのか」などの議論にあたるが、その場合、「変化」「時間」と云う概念の意味内容も位置づけも、互いの理論全体のなかでは(逆転してると言えるほど)ねじれて、異なったものとして存在しているのだが、そのことを理解せずに議論が行われている(ように見える)。
実際、この歴史上の宗論を、いま眺めるに、「実は互いに似通った結論を持っている両者が、それを違った(逆転した)言葉で主張しあい否定しあっているだけの兄弟喧嘩」のような、トホホなものにしか感じられない。
仏教のなかの超克されるべき歴史である。