『その男ゾルバ』の作者である、ギリシアの作家ニコス・カザンザキスのお墓には、
以下の文が刻まれているそうです。
私は何も信じない
私は何も恐れない
私は自由だ
ずっと昔、この言葉を知って、カッコイイな~、いつか自分をもこんなセリフ言ってみたいもんだ、と思ったものでした。
私が取っているメールマガジン『アセンション館通信』の2011/4/10発(第366号)に
こんな言葉が出てきます。
質問者:あなたが到達したという至高の実在とは何だったのでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジ:
私はもはや騙(だま)されない。 それだけだ。
私は世界をつくり出し、そこに住んでいた─ もはやそうすることはないのだ。
『私は在る』(p410)
質問者:あなたは真我の実現の確かな日時を伝えています。
それはつまり、その日に何かが起こったということでしょうか?
何が起こったのでしょうか?
ニサルガダッタ・マハラジ:
マインドが出来事をつくり出すことをやめたのだ。
遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
以前、私は多くのことに確信をもっていた。
今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の知識なのだ。
「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
『私は在る』(p410)
荘子に、「不測に立ちて無有に遊ぶ」というの言葉があるそうです。
「不測に立ちて無有に遊ぶ」
禅の究極は、「遊」に尽きる、と言っていた禅僧が居りました。
白川静さんの「遊字論」も思い出されます。
「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。
遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に外ならない。
この神の世界にかかるとき、人もともに遊ぶことができた。
神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。
~
遊とは動くことである。
常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。
~
神は常には隠れたるものである。
それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。」
白川静「遊字論」『文字逍遥』より
「遊び」とは、決して生ぬるい半端ごとではなく、
死ぬ気で、死ぬよりも辛い現実を、行き抜く、
真に遊んでいる、そのとき、遊びの自覚など、あるはずもないのでしょう。
「もうアカン!」と思うだけ、余裕あり
と云う言葉も思い出されます。
「もう駄目だ! 自分は、もう限界だ!」と言ってるだけ、まだ余裕があり、
その自分の限界を認識できる余裕も無い限界状況を生き切ったとき、
後に、それを振り返って、命懸けの気違いじみた「遊」の最中にあったのだ、と感じるのでしょう。
死ぬのは簡単だし、死んで何も悪くはない(それは個人の選ぶことです)。
でも、もし明日一日を生き抜くなら、痛みと苦しみに全身浸って浮かぶしかなく、
常に、予測できない、想定外の、記録破りの現実(新たなるもの)のなかで、何も知らない、何も分からない、不知の状態のなかで、
無有(生死)の線上を綱渡りをしながら動いていくしかなく、
そうでなかった、これまでのヌルイ、弛んだ現実(生活)の方が自然でなかっただけで、今の、この張り詰めた現実こそが、本当・本来の生きていることなのかもしれません。
「瞬間瞬間、死に逆らうことによってしか、生を維持できない」のが生物にとって自然であり、死にたくなければ、全力で生きる努力を、生き延びる工夫をしていくしかないのです。
死に裏打ちされることで、生は、その輝きを増します。
末期の風景の美しさも、そこにあるのでしょう。
死を、狂気を、足元に感じながら生きていることは、
決して悪いことでも、おかしなことでもないのかも知れません。
そして、この生と死の淵に、揺らがない彼岸への跳躍台も隠されているのでしょう。
「ピンチは、チャンス」と云うありきたりな言葉を、
何度も繰り返し唱えたいものです。