肉体を通しての自由

先ほど、こういう文章を眼にしまして、違和感を感じました。
> 私は肉体ではありません。私は自由です。
> 肉体が自分であると知覚している限り自由は不可能です。
> 肉体は制限です。
> 肉体の中で自由を求める人は、自由を見つけることが不可能な場所で自由を探しています。
> マインドがそれ自身を肉体の中にあるものとして見なくなり、肉体にしっかりとつながれていて肉体の存在によってかくまわれているものとして見なくなれば、自由になることができます。

私なら、こう書くでしょう。

肉体を通して、自由に生きることができる。
肉体の中に、自由への扉(鍵)が秘めれている。
人間(意識)は、自由を拡張するために肉体を持ち、それを進化させた。
マインド(心)は、精神的なプロセスではなく、まぎれもなくマテリアルな、肉体的なプロセスである。
肉体を通して、マインドは自らの身の程(存在位置)を知り、自由に至ることができる。
肉体=意識であり、肉体を離れた場所に意識の自由を求める錯誤に陥ってはならない。

瞑想や宗教を「肉体と切り離されて存在(存続)する純粋なる意識(魂)の探求」であるとする理解が、未だに(スピリチュアルと云われるジャンルのなかでも)通念のように行き渡っています。
が、もうそろそろ、そういう分かりやすい御伽噺(輪廻とか、肉体を脱ぎ捨てた後の魂とか)のレベルは卒業する時期ではないかと思います。