「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。(伊丹万作)
多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。おれがだましたといった人間はまだ一人もいない。民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中にはいってみれば、みな上の方をさして、上からだまされたというのだろう。
上の方に行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだまされるわけのものではない。
このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間組織がいかに熱心かつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
だまされたものの罪は、ただだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、いっさいの責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度をみるとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(略)
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないだろう。 (「映画春秋」1946年8月号)