禅は、過去という死んだ時のなかに生命の亡骸を反省することでもなければ、未来という幽霊のなかに生命を模索することでもあるまい。
即今・眼前、いま、ここに全生命を完全燃焼させて、時ぎり、場ぎりに全体作用するものが禅だと、私は信じている。
しかも、前後を截断した現在は、現在でありながら時を越えている。
したがって、過去と未来を切って捨てるとき、かえっていわゆる『三世古今、始終当念を離れず』という言葉のように、対立を絶した永遠なるものに当面するのである。
禅は、過去という死んだ時のなかに生命の亡骸を反省することでもなければ、未来という幽霊のなかに生命を模索することでもあるまい。
即今・眼前、いま、ここに全生命を完全燃焼させて、時ぎり、場ぎりに全体作用するものが禅だと、私は信じている。
しかも、前後を截断した現在は、現在でありながら時を越えている。
したがって、過去と未来を切って捨てるとき、かえっていわゆる『三世古今、始終当念を離れず』という言葉のように、対立を絶した永遠なるものに当面するのである。