それは、意識の中に自己を忘ずることであって、意識をなくすることではない。
意識の中に自己を忘ぜよと教えられている。
これ、大死一番大活現成(だいしいちばんだいかつげんじょう)の道である。
すなわち、意識自体が純意識自体であるときに、自体が自体を知ることは出来ない。
主体を主体と知ることも出来ぬところに、意識の主体すらも消滅するのである。
眼(まなこ)眼を見る能わざるが如し。
この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。
それは、織自体が織以前の純然たる法性体(ほっしょうたい)の事実に直接に証せられて、認識の及び難きものなることをまさしく得たとき、得る要も捨つる要もなく、自信の要も全くなきことを得るからである。
この時初めて、「今」の事実たる一大法界(ほっかい)が無条件で証せられ、この生活自体が法身(ほっしん)であることを自得するのである。
この時、疑いようも信じようもない、その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。
求心(ぐしん)の全く止む時である。