うっかりすると仏法を階段のぼるように思うてしまうが、そうじゃない。
いつでも今、一歩ふみだしたところが一行一切行、一切行一行である。
求めたものは失われる。
求めざる豊かさ―回光返照、退歩してみれば、求めるものは何もない。
逃げも追いもできぬものである。
実相は不生不滅、不垢不浄、不増不減なのじゃから。
投稿者: 霊基
ホ・オポノポノ
1 “I love you”(愛しています)、
2 “I’m sorry”(ごめんなさい)、
3 “Please forgive me”(許してください)
4 “Thank you”(ありがとうございます)
これらの4つの言葉を 内なる「The Divine(神)」に対して言います。
これらの言葉は、自分を浄化するための言葉で、これらの言葉を繰り返す際には必ずしも感情を伴わなくても良いです。
けれども、とにかく心の底に届くまで、何度も何度も繰り返します。
気づきの言葉
◆ 受け入れ不可能なものを受け入れることが、この世の慈悲を受けとる、最高の手段なのです。
◆ あとどれくらい偶像を探せば、自分が自分の探し求めているものだったと気づくのだろうか? ダン・フォーゲルバーク
◆ 「私は森へ行ったのは、思慮深く生き、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったと発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった」 ソロー 『森の生活』
◆ 自分の不完全さを受け入れると、それはコンプレックスから個性へと生まれ変わり、人間としての魅力も増す。悟りとは、悟りなど必要無いと思えた時が、悟りです。 須藤 元気
◆ 十歳にしては菓子に動かされ、
十歳にしては菓子に動かされ、
二十歳にしては恋人に、
三十歳にして快楽に、
四十歳にしては野心に、
五十歳にして貪欲に動かされる。
いつになったら人間は、ただ叡智のみを追って進むようになるのだろうか。 ルソー
◆ あなたがあと一週間の命だったら何をするか。それが一生かけてでもやるべきことなのだ。
◆ 君子の交わりは淡きこと水の如し 小人の交わりは甘きこと醴の如し 荘子
◆ 慰められるよりも、慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
私が望みますように
(聖フランチェスコの一説より)
◆ 今はただ目が眼鏡を見ているだけなのだ。ただ物事をみている。ただ見るためにどんな瞑想が必要だというのだろう?なんの瞑想が必要だろう。そこにはただ気づきがあるだけだ。「私は気づきだ」に戻りさえすれば、すべては崩壊する。
◆ 人はそれを真実と認めようとしない。なぜなら認めると変わらざるをえないからだ。
◆ 私たちの知識の島が大きくなるに従って、私たちの無知の海岸も広がっていく。 ラルフ・W・ソックマン
◆ 知識は「これほど知っている」と誇り高い。知恵は「これ以上は知らない」と慎み深い。 ウィリアム・クーパー
◆ 「同一のゴールに到達するために、じつにたくさんの道がある」 ラーマクリシュナ
◆ 「真理に至る道は無い」 クリシュナムルティ
◆ 自由とは、なによりもまず自己同一化からの自由なのだ。 グルジェフ
◆ 私はいつの日救われる? それ、その「私」が消えた時。 ラーマクリシュナ
◆ 善悪は個人の問題。
真実・不真実も個人の問題。
ブラフマンにとっては何事でもない。 ラーマクリシュナ
◆ あなたの苦しみを愛しなさい。それに抵抗しないこと、そこから逃げないこと。
苦しいのは、あなたが逃げているからです。
それ以外ではありません。 (ヘルマン・ヘッセ)
◆ 生まれ変わりの最後の生涯の人は、至聖なるものにだけ心をひかれる。(ラーマクリシュナ)
◆ 主なくて見聞覚知する人を、生き仏とは、これをいうなり。至道無難禅師
◆ 仏法のうちにおいて情を生ずれば、それは世法に堕してしまう。
世法の中において情を生じなければ、それはそのまま仏法になる。 『夢窓国師 夢中問答』
◆ 浅い流れは、かしましい。 静かな流れは、底が深い。
◆ 良い結婚とは、強い自立した人間の間にしか存在しない。
◆ 運は天にあり、行いは人にあり
◆ 神話は公衆の夢であり、夢は個人の神話である。 J・キャンベル
ラーマナマハリシ
あなたの務めは、“「在る」ことであり、これであったり、あれであったり”することではない。
「私は私であるものである」ということが、すべての真理の要諦である。
その方法は「静かであること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか?
それは「あなた自身を打ち壊す」ことを意味する。
何故なら全ての名前と形が困難の原因だからである。
「私-私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。
「私」が「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。
それが突然に脇道にそれて「私はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それはエゴである。v
『呼吸による癒し』 p.99
強いて解脱(開放)を起こすことはできません。それは『我』にとらわれた行為であり、自意識過剰な修行者です。
本当の瞑想は瞑想者が死んだときに始まります。
どこかに行こうとしているとき、ブッダになろうとしているとき、涅槃を得ようとしているとき、瞑想者はまだ生きています。
最初はそれが自然ではあります。
もちろん、あなたは目的を達したいのであり、そうでなければ、そもそも修行など始めたりはしません。
しかし、時を経るうちにおのずから、そのような目標も概念にすぎないのであり、かえってそれが苦しみの元となることを理解するようになります。
修行が進むにつれて、観察以外には何もないといった、対象への明け渡しが生じてきます。
グルジェフ
人々のやることはすべて <性> に結びついており、政治、宗教、美術、演劇、音楽などはみな<性>なのだ。
祈ったり、観賞するために教会や演劇に行くのは外っ面で、劇場でも教会でも重要なことは、そこにたくさんの女性と男性が居るという事なのだ。
これがあらゆる集会の核心だ。喫茶店やレストランや種々雑多な祝宴に出かけるのも、理由はたったひとつ ― 性だ。これこそあらゆる機械性の中心をなす動機だ。
あらゆる眠り、催眠はこれに依存してる。