あらゆる努力の目的

質問者:私たちはある修行をしばらくやりましたが、進歩が感じられません。私たちはどうすべきなのでしょうか?
マハラジ:あらゆる努力の目的は、今、人がここで所有していない何かを得ることである。あなた方が達成しようと思っていることは何なのか?
質問者:私たちはあなたのようになりたいのです――つまり、悟りたいのです。
それを聞くと、マハラジはベッドから起き上がって(彼はガンを患っていた)、笑った。
マハラジ:ほら、そこが、あなた方が誤解しているところなんだ。あなたは、自分のことを何かを達成しなければいけない一個の実体で、あなたが思っている私のような実体になることができると考えている。その考えこそ、「束縛」である。一個の実体との一体化をやめること、それ以外に自由はない。あなたは自分を一個の実体で、私のことも一個の実体で、お互いに分離していると見ている。しかし私は、まさに私が自分自身を見るようにあなたを見ている。あなたは私の本質だ。一個の対象物体が、その物体のために解放を求める。これは冗談ではないだろうか? そもそも、対象物体が自由意志をもったり、独立した存在をもったり、束縛されたり、解放されたり、そんなことが可能だろうか?

シンプル道の日々 より

許しの近径

ラメッシ・バルセカールの教えでは、「罪悪感からの解放」など、
「自分のなかの悪感情に対して、更に悪感情を重ねる」「怒りに対して怒る」「嫌悪を持っていることを嫌悪する」と云う、修行者が陥りがちな悪循環・ループによって、現在の事実・自分を観察するに必要なエネルギーが浪費されるのを防ぐ、と云うところに、まず第一のポイントがあるように感じます。
しかし、同時に、この観念は、返す刀で、
他人に対する「怒り、うらみ」を意識の深層の部分から切ってくれる、切除に役立つように思います。

通常、私たちは、たとえば親友との関係で「どうしても困っていいるから助けてくれ、とお金を無心され、かなり迷ったけど、自分の大切に取っておいた貯金を切り崩して、ほとんど貸してあげて、そのときは泣き出さんばかりに感謝され、必ず一年以内には返すから、と言われたのに、結局、一年経っても何の連絡もなく、こちらから連絡取ろうとしても梨のつぶて、何度か催促しているうちに不仲になり、そのうち第三者から、あの人が貴方の悪口言いふらしているよ、と聞かされ、その内容は事実無根の、自己弁護のためのかなり酷いものであった」などという事件とか、「自分の同姓の大親友と自分の奥さん(パートナー)が、実はずっと前から浮気をしていて、自分はまったく何も知らず気づかず、心を許して付き合っていたのだが、それがある切っ掛けで発覚した」とか云う出来事などが起こると、そうとう腹が立ち、こいつ殴ってやろうか、とか、まずは思いますが、瞑想などしている人ならば、どうにか色々な肯定的な考え方(反応系の思考)→反応系アファーメーション や瞑想による気づきなどで、どうにか表面的には、気づき、受け入れ、受容して、ある程度の時間をかけて、「それは自分にとって、起きるべくして起こった良きことだったのだ、甘んじて受け入れよう」と云う認識には至るでしょう。
が、実際には、心の奥底では、その相手に対する「怒り・腹立ち・軽蔑」の気持ちは残余することが多いでしょう。(その場合、主観的な感覚としては「怒り」ではなく「哀れみ」を感じる、などの形で、その怒りはくすぶり続けるでしょう)

この「怒り」の感情の正当性の根拠は、「相手は、そうしない(その行為を選ばない)こともできたのに、そうしなかった」「違う態度・行為をすることもできたのに、あの(最低の)行為をした」と云う人間・世界認識にあると思います。
たとえば、私たちは、虫とか魚とかが、自分の気に入らない、やって欲しくない行動を起こして、それによって自分が被害を蒙ったとしても、虫や魚にそれほど怒りません。
あるいは、今日は天気がいいから、どこかに遊びに行こうと思っていたら、突然、豪雨になった際にも、がっかりして、「あ~あ…」とは思いますが、天候とか地球とかに対して怒ることはしません。
それは、虫や地球の自由意志で、それが起こされたとは考えずに、なるべき必然で、その現象が起こったと理解しているからです。

ラメッシは、すべての人間の行動・言動も、それと同じく「自由な意志、自由な選択」は、どこにも介在していないと説きます。
親友の裏切りも踏み倒しも、そこに本人の何の自由も選択も、自分にとってもっと良い、他の別の行動を選ぶ余地も、存在していないと説きます。

この人間・世界理解の徹底によって速やかに、他人に対する「うらみ・怒り」は解けていくことでしょう。
やるべきことは、このことの徹底した考察と納得です。

「私を傷つけた人々すべてを完全に許します」との「許しの祈り」というものを目にしました。
この祈りを、自身の内面で、言葉通り遂行するには、
おそらくラメッシ的な「自由意志の不在」の認識徹底が必要だろうと思うのです。
そうしないと、怒り・恨みと云う本当の感情の微妙な抑圧となってしまうか、
あるいは、それが「高みからの見下し」と云う形に変形されて、相手との関係に残るのでは、と。

現実・現象の根本的受容、受け入れ、全托、許し、感謝―
それらすべてに「人間の心に対する決定論的理解の徹底」は関わってくるように思います。

内観道歌

まことなきおのが心をあらためて 祈ればまことあらわれぞする
(真なき己が心を改めて 祈れば真、現れぞする)

心だにまことの道にかなひなば 祈らずとても神や守らん

悲しむべし凡愚の瞋恚無慙無愧 咎なく過ごすまさに是れ僥倖

極楽は西にはあらず皆身にあり 地獄のさまも己がこころぞ

己心の弥陀、己心の悪鬼の入りまじり 今日ひと日の無事に額く

アナトミー・トレイン

ANATOMY TRAINS OFFICIAL JAPAN SITE

手技として、技法を理解・習得するためには、DVD4枚組×2が必要なのですが、それとは別に、この「身体の路線地図」は、アレクサンダー・テクニックで云う「thinking 思うこと」の材料として有効です。
この経路を自分のなかで思い描くことだけで、かなりの体の変化が出ます。

つまり、手技療法の技法としてだけでなく、身体認識の一つの理論として、面白いし、使えると云う印象が強いです。

かなり高価な教材ですが、Yahooオークションなどで中古が出回っており、それだけの価値はあると感じます。

他者依存と自立・自助 身体のメンテナンス

「呼吸で人生をストレッチする!」から
http://archive.mag2.com/M0084072/index.html
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私は整体師を名乗っていますが、セミナーやレッスン時にはよく、「頻繁に整体やマッサージを受けるのはやめましょう!」と提唱しています。
なので、周りからは変わった整体師といわれることもしばしばです。(笑)
以前からこのメルマガでも度々その理由を書いていますが、他人にほぐしてもらうだけで、自分で身体を使わないでいると「依頼癖」を身体が覚えてしまいます。
ただ身体を横たえて委ねているだけでは、骨盤周りを取り巻く筋肉がどんどん弱っていくだけです。
弱ったままの筋肉では、いくら骨盤を正しい位置に矯正しても姿勢を保てませんし、開閉という動きも出来ないままです。
そういった考えから私は現在、整体の施術のみを希望される方はお断りしています。
今は毎日、正しいストレッチと16時間酵素断食の指導に切り替えました。
筋肉を揉んでも、揉みグセがつくだけ、骨盤を矯正してもらっても周りの筋肉が弱まるだけです。
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20年以上整体を続けてきて、痛感している事があります。
骨盤を第三者が人工的に矯正する事の不自然さです!
脚の長さが左右でかなり違っていても、そのほとんどを一度の骨盤矯正でそろえる事は簡単なのですが、それを維持する事がいかに難しいかは、多くの施術家も患者さんも共に思い知らされています。
骨盤は、一日の朝~夜でも、開いたり閉じたり、上がったり下がったりと、常に動いています。
この骨盤のリズムは、人工的に変える事は出来ません!
朝を夜に変えたり、夏を冬に変えたり出来ませんよネ(笑)
人間の身体は動かない建物ではありません!
年中無休で動き続ける建物なのです。
今迄、私が何度、骨盤矯正をして歪みを整えても、歪みを再発させてしまい戻ってくる方が大勢いました(> <;) ある時、ふっと考えたのです! この人の身体は歪みたくて歪んでいるんだ!歪まざるを得ない理由と言い分があって歪んでいるんだ!! それを第三者の私が得意の整体で矯正しても、表向きは整っても、身体の言い分を無視しているから、再発するのは当たり前だと・・・。 何度も書いていますが、身体を第三者にゆだねればゆだねるほど、身体の自然治癒力は弱くなっていきます。 だから、自分自身で筋肉のコリや関節の強張りをほぐしながら、身体が歪んでしまった言い分を聴いてあげる事が大切なのです。 そうして、息苦しかった身体の風通しを良くしてあげると、骨盤が開くべき時に開き、閉じるべき時に閉じるようになっていきます。 大切な事は、骨盤の止まった形よりも、しなやかな開閉が出来る動ける骨盤なのです!