気づきのことば

病苦、貧苦、愛別離苦―。あの手、この手と手段を変えて、神は私たちを痛めつける。
区々たる眼前の事象や我執に心奪われて、容易に目がさめない私たちの眠りを覚まして、宇宙の真理と大生命に逢着させんがためである。

……

自分に最も気に入らぬ出来事や人物に当面したら、内心ひそかに「ああ、いい教師に出逢ったな」と思えばいい。その「教師」に月謝をうんと出してもいいのである。

……

究極のところは「神の公平を信じるかどうか」ということである。
ここに肝がすわれば、くよくよすることはない。

……

下座行を積んでない人は信用できない。

……

絶対の他力を信ずれば、迫害も又、神の恩寵である。

……

切羽詰って、はじめて真実のことばがうまれる。
切羽が詰まる、鍔迫り合いのことであって、生きるか死ぬかの瀬戸際である。

……

自分に働きかける神意の深さ読み取れないというのは、
結局、苦労が足りないからである。

……

神と共に生きる人は、この世で最も強い人である。

……

最後に残るのは、神と自分だけである。

否定的感情の目的

自分の考えが否定される、
抱いていたイメージが破られる、
自分のプライドが傷つけられる―
否定的感情になるのは決まってこのようなときです。
しかし、それだけではありません。
否定的な感情になるのは、自分を守るためなのです。
承認を得ようとしたり、
やれない言い訳をしたり、
人をコントロールしようとしたり、
嫌な現実から逃避する手段として使ったり、
自分は今、この否定的な感情で何を得ようとしているのか、
それを見ること、それに気づくこと。

疑似科学・ニセ科学批判

お父さんの[そらまめ式]自閉症療育: 菊地誠氏の活動について
「菊池氏に言わせれば、人がニセ科学に魅入られやすいのは、ニセ科学が単純な二分法で複雑な問題に明快に白黒をつけてくれるからだという。しかし、現実の世界というものは複雑なものであり、その複雑さを少しずつ読み解いていく課程こそが「合理的思考」であり「科学的思考」だとも、菊池氏は言う。
菊池氏の取り組みがユニークなのは、自らの活動によって、今すでに「ニセ科学」を信じてしまっている人を説得できるとは、必ずしも考えていないという点にある。
それよりも、今はまだそういう説を知らない人たちが、ふとしたはずみでその存在を知り、おかしな考えにとりつかれてしまう前に、「こういう説は科学的なように見えて、実は非科学的で何の信憑性もないんですよ」ということを広めておこうというのである。病気に例えれば、感染してしまってからでは治療は困難だから、しっかりと予防措置をしておきましょう、というようなことかもしれない。」

浄土宗の法話

浄土真宗 長善寺 法話
「人事を尽くして天命を待つ」という自力の心を、清沢満之師は「天命に安んじて人事を尽くす」と言い換えたという。
今を生ききれない人間が未来に生きることはできない。
死を前提にして今を生ききる。
自らの煩悩と無力さを知った時に、人事を尽くすことができる。
(法話の一節から)
この和尚さんは、こんな本も書かれているようです。
『生き物たちのエレガントな数学』

ラメッシ・バルセカール 美しくも破壊力ある教え

『誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』
非常に端正な、美しさと論理性、破壊力を併せ持ったアイデアです。
ただし、人によって、合う合わない、響く響かないが、はっきり分かれるタイプの教えではあるでしょう。
合う人(響く人)にとっては、内容をざっと読んでしまうだけで、時間と共に、心自体が勝手に理解を熟成させ、心の反応の仕方(物の見方・考え方)の根っこの部分を大きく変えてしまう結果になることでしょう。
以下、ラメッシの教えについて触れられた記事
ラメッシの教え――「すべては神の意志」: シンプル道の日々
行為者はいないということについて – 卵の中の黄身