台所で出た生ごみ(野菜くず)を堆肥置き場に埋めていたら、そこからカボチャが生えてきて、ドンドン伸びて、ついに稽古部屋の窓に這い登ってきました。
堆肥から栄養を貰っているだけあって、元気です。
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キノコ、三色
アレクサンダー・テクニーク関連断片
人にとって一番身近な存在は自分本人です。
しかし、一番観察しづらいのは自分自身かもしれません。
もしあなたが車の運転をしていても自分の車のタイヤが回っているのを見ることは出来ません。
しかし、車をコントロールしているのは紛れもなくあなた自身です。
車が安全に目的地に着くためには運転の技術の他にも気をつけなければならないことがありますよね。エンジンのオイル、タイヤの空気圧、ガソリンの量、その他にも沢山の部品がしっかりと機能して初めて安心して運転が出来ます。
ちょっと近くに買い物に行く、遠くにドライブに行く、サーキットでレースをする、様々な状況で必要な技術は変わりますが、どの様な時でも車の状態が悪くては快適な運転は望めません。
あなたが朝顔を洗う時、舞台の上でパフォーマンスをする時、会社でコンピュータのキーボードを叩く時、あなたの身体は快適に仕事をしてくれますか? 顔を洗って腰を痛くしたり、指先でキーボードを叩くだけなのに肩がこったりしませんか?
練習したことが本番で充分に活かされますか?
すべての動物が持っている「自分を整えうまく使う機能」、もちろん人間だってその能力があります。しかし、人間はあまりに複雑な環境の中でその機能を自分が気が付かない内にじゃまをしてしまっているのです。
アレクサンダーテクニークでは「自分をうまく使う機能」を「プライマリーコントロール」と呼び、この機能がうまく働く身体を取り戻すことを学びます。その為にまず、自分を知ることから始めます。
アレクサンダーテクニークの先生は言葉や手を使ってその手助けをしてくれます。ちょうどそれは自分の姿を確かめる鏡のようなものかもしれません。
それは視覚だけではなく、触覚、知識、様々な方法で「自分と自分自身」の対話の方法を身につける事です。
……
体をうまく使えるかどうかは、頭と首と背中との協調関係にかかっている。
この3つを調和させる能力をプライマリー・コントロールと呼ぶ。
人間はもともと、プライマリー・コントロールによって動くようにできており、三歳くらいまでの幼児は、完壁にプライマリー・コントロールを働かせている。
ところが、成長するにしたがって姿勢を崩していく。
成人する頃には、プライマリー・コントロールが正しく働いているのは、百人のうちわずか数人に過ぎない。
誰もが、体の動かし方にそれぞれ独自の癖をもっているが、特に気にも留めず、それが間違っているなどとは思いもしない。しかし、それこそが体や心の不調の原因であることが実に多いのだ。
……
ATでは、長い間に体に染み着いた癖を捨て、本来のプライマリー・コントロールを働かせることを学ぶ。
生徒は、受動的な立場でありながら、イメージするという作業で能動的にワークに参加していく。
ATの基本は「首は楽になり、頭は前へ上へいき、背中は長く広くなる」ということだが、それはあくまで、思い描くものであって、筋肉を動かしてそのように“する”訳ではない。
さらに、生徒の癖を復活させず、正しい姿勢を保ったまま動作をさせるためには、もうひとつ重要な手段がある。それが「抑制」と呼ばれるテクニックである。
コンピューターでいえば、従来の動き方の「プログラム」を実行させないようにする方法なのである。
通常私達が「座る」「立つ」といった日常動作を行なうとき、いちいち各筋肉の動きを意識したりはしない。実際には、動作のひとつひとつに何億という細胞の動きがかかわっているが、それは「座る」というプログラムに集約されているので、頭で考える必要はない。
ところがこれは各自の癖を組み込んだプログラムであるため、「座る」と思った瞬間に、体の各部は予めインプットされているプログラム通りに動こうとしてしまう。
そこで、「座る」のではなく、「膝を曲げる」「股関節を曲げる」というように、座るプロセスの1つひとつに意識を集中することで従来のプログラムを回避していくのである。
これが「抑制」である。
体に下される命令は「座る」ことではないため、体はいつもの癖を出さなくて済む。
……
姿勢を変えると意識も変わる
また、ATはボディワークでありながら、心の深い部分にまで触れてくる。
姿勢はその人の心の反映であるから、姿勢を直すことで心まで変わってくるのだ。
「正しい姿勢をとると疲れるのではないか」と考える人もいるだろうが、それは、正しい姿勢とは「気をつけ」の姿勢のことだと思っているためだ。
しかしATでいう正しい姿勢とは、最もバランスのとれた状態のことであり、どんな動作のときにも力のいらない楽な姿勢のことだ。
階段を上がっていても、ほとんど浮いているように感じることさえある。
そういった体の上手な使い方を毎日続けることで心身ともに健康になれる。
日常の動作を意識的に行なうことによって、「動く」という本来の意味を発見し、新鮮に感じることができるのである。
『世界でいちばん美しい物語』 エピロ-グ 人類の未来
ドミニク・シモネ― 150億年の進化、そしてわずか数千年の文明の果てに、私たちは今こうして存在しています。ビッグバン以来の進化によって、たえずより複雑な構造体が生み出され、私たち自身が、いわばその白眉でもあるわけですが、進化の過程というのは今なお続いているのでしょうか。
ジョエル・ド・ロネー 素粒子、原子、分子、高分子、細胞、原始多細胞生物、個体群、生態系、そして、いまやその身体諸機能を外在化しつつある人類。
もちろん進化は続いています。
しかし、今では、それはとりわけ技術的社会的進化です。
文化が生物学的進化に取って代わったのです。
― 私たちは今、生命の出現時にも比すべき転換期、大きな歴史の曲がり角に立っているわけですね。
そうです。
宇宙的、化学的、生物的段階の後、第4幕の幕が開いて、これからの人類がそれを演じていくわけです。
私たちは集団的な自己意識に到達したのです。
― 第4幕は、どのようなものになるのでしょうか。
私たちは今、新たな生命形態、全地球規模のマクロ有機体を生み出しつつあると言えます。
この有機体は、生物の世界と人間の生産活動とを包括し、それ自体進化していくもので、私たちはそれを構成する個々の細胞に過ぎません。
それは、インターネットを萌芽とする神経系を持ち、物のリサイクルという代謝機能を備えています。
さまざまな相互依存システムから成る、この全地球規模の脳が、人々を電子の速度で結合させ、物や情報の交換形式を一変させつつあるのです。
― 比喩を続けるなら、自然淘汰ではなく、文化的淘汰が、いまや遂行されているわけですね。
そう思います。
私たちの発明品は突然変異に相当します。
この技術的社会的進化の速度は、ダーウィン的な生物進化とは比べものになりません。
電話、テレビ、自動車、コンピュータ、人工衛星、これらはみな人間が創り出した新しい「種」なのです。
― そして、人間が淘汰も行うのですね。
そうです。
たとえば市場とは、発明品の種を選択し、排除し、増殖させる、ダーウィン的システム以外の何でしょうか。
ただ、生物学的進化と大きく異なるのは、人間は抽象の世界で新しい種を幾らでも好きなだけ作り出せると云うことです。
この新たな進化は、非物質化しつつあるのです。
人間は、現実の世界と想像の世界との間に、仮想現実という新たな世界を作り出し、その結果、人工の世界を探求することだけでなく、まだ存在していない製品や機械を作ってテストすることさえできるようになりました。
ある意味で、この文化的技術的進化は、自然の進化と同じ「論理」に従っているのです。
― では、複雑系の運動はまだ続いているのですね。
ええ。
ただ、物質の重いくびきからは少しずつ解放されていきます。
私たちは、いわばビッグバンの時点に再び戻ったのです。
150億年前のエネルギーの大爆発というのは、テイヤール・ド・シャルダンのいう「オメガ点」、つまり物質から解放された精神の爆縮を、そっくり裏返しにしたようなものです。
あいだの時間を考慮に入れなければ、この二つは区別できないほど似ています。
― とは言え、時間を忘れることは、とりわけ私たちのかくも短い人生の時を忘れることは簡単ではありません。
個々の人間が、自分を超える地球規模の有機体のなかに単なる細胞として組み込まれてしまうのであれば、個人にもなお未来があると言えるのでしょうか。
勿論です。
私は、人間は、まだまだ自らを改善していけると思います。
個々の細胞は、集合して社会を構成したときのほうが、孤立して生きるときよりも大きな個体性に到達できます。
マクロ組織化の段階は、たしかに世界全体の画一化の危険を伴いますが、多様化の萌芽も含んでいます。
地球がグローバル化するほど、内部の分化も進むのです。
― 生物学者の立場から、進化とか脳とか突然変異とかの言葉で現代の社会を説明なさっているわけですが、比喩を現実と取り違える危険はないでしょうか。
生物学から社会の解釈を導き出すことはできません。
そんなことをしたら、容認しがたいイデオロギーに帰着してしまいます。
そうではなく、生物学が私たちの思考に新たな活力を与えられると云うことです。
今世紀初頭には、歯車や時計など機械による比喩が盛んに用いられましたが、現在の状況を捉えるには、有機体の比喩がいちばん有効だと思います。
もちろん、文字通りに取らないとしての話ですが。
たとえば、いま形成されつつある地球規模の有機体は、私たちの身体機能や感覚の外在化であると言えます。
テレビは視覚の、コンピュータは記憶の、交通機関は足の延長なのです。
しかし、大きな問題は、私たちが、このマクロ有機体と上手く共生していけるのか、それとも寄生者に甘んじて、私たちを支えるこの宿主を破壊してしまうのか、と云うことです。
選択を誤れば、経済、環境、社会、いずれの面でも深刻な危機に陥りかねません。
― どちらの方向へ向かうと思われますか。
現在、私たちは、さまざまなエネルギー資源や情報や資材を自分のために消費し、そこから出る廃棄物を周囲の環境に撒き散らして、そのつど、私たちを支えてくれる生態系に打撃を与えています。
私たちは。自分自身の寄生者とも言えます。
先進国の繁栄が発展途上国の成長を阻むことによって成り立っているからです。
もし現在の道をたどり続けるなら、間違いなく私たちは地球の寄生者になってしまいます。
― では、そういう事態を回避するには、どうすれば良いのでしょう。地球環境の保護ですか。
大切なのは、ノスタルジックな環境保護論者が主張するように、保護区を作って、その囲い地に生物種を閉じ込めておくと云うようなことではありません。
そうではなく、地球とテクノロジー、生態環境と経済とのあいだに上手く調和を見出せるかどうかです。
危機を回避するためには、これまで語ってきたような複雑性の進化に関する知識から教訓を引き出すことが必要になるでしょう。
私たちがたどってきた歴史を知ることによって、現実に対して必要な距離をとり、自分たちのしていることに一定の方向、意味づけを与え、これまで以上の叡智を獲得することができるようになると思うのです。
私個人は、集団的知性の発展、科学技術におけるヒューマニズムと云うものを信じています。
その気になりさえすれば、私たちは人類の新たな段階に冷静に対処していけるだろうと思います。
『世界でいちばん美しい物語』 p.210-214
井筒俊彦 『意識と本質』
ネット上で見つけた抜粋から
……
P136
ここ、目の前に一本の杖があるとする。絶対無分節の存在リアリティーは「いまここでは」杖として自己分節している。だが、それは杖であるのではないと禅は言う。「本質」で固定された杖ではない。ほかの何でもあり得るのだ。(この禅的存在風景の中では)ものの、ものとしての存在根拠、すなわち「本質」はない。無「本質」でありながら、しかもそれぞれのものがそれぞれのものとして現象している。
P146-7
禅は言うまでもなくいわゆる悟り、見性体験を中心にする。骨身を削る修行を積んだ僧は、普通これを三つの段階に分ける。第一段階は禅の道に入る前の時期。世間の人と同じく、世間の目で山を山、川を川として見る。世界は有「本質」的にきっぱり分節されている。
しかし参禅してある程度目が開かれてくると、同一律と矛盾律によって厳しく支配されたそれまでの経験的世界が一挙に変貌する。図式的に言えばこれが「第二段階」。山は山でなく、川は川でなくなってしまう。山も川も、あらゆる事物が「本質」という留め金を失う。それまで、いわゆる客観的世界をぎっしり隙間なく埋め尽くしていた事物、すなわち「本質」が融けて流れ出す。存在世界の表面に縦横無尽に引きめぐらされていた分節線が拭き消される。もはや山は山「である」という結晶点をもっていない。
そして、そんな山や川を客体として自分の外に見る主体、我、もそこにはない。すべてが無「本質」、したがって無分節。もっと簡単に言えば「無」。これが、マロニエの木の根の姿に嘔吐したサルトル=ロカンタンの見た世界だ。だが禅ではこれに続いて次の第三段階があるゆえに、その存在体験は、サルトルの実存体験とはまるで違ったものになってしまう。
第二段階で「本質」を奪われ、分節を失った経験的事物は、次の第三段階へ移ると、また全部戻ってくる。しかし、分節は戻るが「本質」は戻ってこない。存在分節があるからには、もはや無一物の世界ではない。山は山として存在し、川は川として存在する。だがそれらの山や川には「本質」がないのだ。
P151
事物の「本質」は、人間の倒錯した意識の働きによって現われてくる、と大乗仏教は言う。経験世界ではたらく表層意識は、いたるところに「本質」を見る。だがそれは仮構であり虚構であって、真に実在するものではない。本当はありもしない「本質」を、あたかも実在するかのごとく仮構して、様々な事物を自体的存在者として固定し定立する。この表層意識本来の働きを、仏教では一般に妄念と呼ぶ。
表層意識が「本質」仮構的に働くから、事物の分節が起こる。このことは裏から言えば、意識が「本質」仮構的に働きさえしなければ、存在は紛紛たる分節の様相を消して、その本源的「一」性に還るということでもある。
P155
禅的に体験される無分節は、個々の事物に「本質」がないことを理性的に理解することとは全然違う。もともと関係性(因縁)によって成立したものだから、それ自体には独立した実体性がないはずだ、と理屈で結論することではない。事物の無「本質」性をこの仕方で理解するだけなら、人は表層意識の領域を一歩も出ていない。そして表層意識で理解されたものは、何であれ、必ず有「本質」的に分節されている。「無」すらこの次元では真の意味の無分節ではない。「無」という本質を持つ有「本質」的分節なのだ。表層意識はしょせん分節機能から離れることができない。
p156-61
あらゆる事物の無「本質」性、存在の絶対無分節のこの深層的了解が成立したとき、「真空妙有」という事態が出現する。そこは、何も弁別できないという点では無であり無分節だが、しかしそこに何かが無いわけではない。「有而不可見」、つまり何か存在しているが目には見えないという事態である。
これを「表層意識的」に言えば、人に認識をもたらす深層意識の奥底には、分節の「種子」が隠れていると考えることができる。そのことは、この次元での分節、すなわち無「本質」的分節で現出する事物が、言語による文化的枠組ごとに微妙な差異を示すという事実から了解できる。同じ参禅修行に入った場合でも、サンスクリット語を母国語とする修行僧に現れる事物(山や川)のイマージュと、中国語を母国語とする修行僧に現れる事物(山や川)のイマージュは、同じ種子から生まれた米が一粒ずつ違うように、微妙に違うのである。チベット僧の描くマンダラと中国僧の描くマンダラは受ける印象がかなり異なる。
P177
無「分節」者が不断に自己分節していく、その分節の仕方は限りなく自由である。人間が行う、コトバの文化的制約に束縛されながら行う存在分節は、無限な様式の中の一つであるにすぎず、一つの枠組のなかでの人間特有の感覚器官の構造がそうさせているだけである。
P203
われわれの感覚器官の構造は、何事によらず経験的世界の、質料性でしっかり固められた存在秩序に頼ろうとする傾向を持つ。しかしながら、絶対無分節の深層的事態を「見」た修行僧にとっては、存在性の真の重みは「比喩」の方にある。比喩とは、存在次元の「移し」によって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的存在次元に「運び移され」て、そこで異次元的に「宙に浮いて」いる存在者である。「比喩」に存在性の重みがないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば密教マンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。
圧倒的な実在感は、事物の「元型」が人間の深層意識に形象的に映されていることに由来する。ユングはこの「元型」が人格のアイデンティティ形成において重要な役割を持つことを、理論的にも実験的にもきわめて説得的に明示した。