『代替医療のトリック』 サイモン・シン

『代替医療のトリック』 サイモン・シン

さすがにサイモン・シン。
導入から読み手の引き込み方が上手く「代替医療の批判的検証」という地味なテーマを扱っても、一気に読み進められる誘引力があります。

読んでいて、ドーキンスの『神は妄想である』を連想しました。こちらも一気に読ませる本でした。

代替医療のトリック(ブックレビュー)

レビューから

この書物の本質は、「効果があるかどうかは、いかなる分野であれ、無作為化二重盲検試験を行い、客観的に評価されるべきである」ということです。
治療法や薬が真に効果があるかどうかを客観的に評価できる現在人類が持っている方法は、「無作為化二重盲検試験」です。
批判する場合も、評価する場合もこの検査について本質的に考察するべきで、
多くの書評にあるような文学的な批評はナンセンスです。
医学における、「無作為化二重盲検試験」は現在究極の評価法であり、その結果でもって効果があるかどうかを評価すべきであり、その根本を受け入れないならば、医学や科学以前の、魔術や錬金術と同じ時代のレベルに退行することを厳密に受け止めるべきでしょう。

二重盲検法 – Wikipedia

ホメオパシーは「効果が確かめられていない」方法ですらない – Skepticism is beautiful

ホメオパシーFAQ – Skepticism is beautiful

カルトにだまされないための必須知識2 「二重盲検法」=「二重盲検試験」=「ダブルブラインドテスト」

ジャズ&オーディオ通信
(from USA):オーディオと二重盲検法

最後の「オーディオと二重盲検法」は、なかなか面白い記事でした。

怒りは恩恵を隠している

貴方が、何かほんの些細なことでパートナーに対して怒りを爆発させてしまった後で、実はそのとき、相手は惜しみない愛を貴方に与えようとしていただけだった、と云う(誤解の)経験をされたことはないでしょうか。
私たちが、自分の気にさわる相手の言動をあげつらって怒り、責めるとき、自分ひとりで勝手に怒りを選択し、喜びを感じる機会を逃しています。
自分についての気づきを深めていけば、「怒りを選ぶか、愛を受け取るか」の選択が、どの瞬間にもできることが分かるでしょう。
怒りは、自己正当化、裁き、判断があるとき生まれます。
怒りと云う生理的な反応の持続時間は、実はわずか数分ほどです。
それを長く引きずっているのは、私たちの瞬間瞬間の(継続させることの)選択によります。
あらゆる怒りの場面には、気づきと恩恵の機会が隠されています。

自然はそんなにヤワじゃない

『自然はそんなにヤワじゃない―誤解だらけの生態系』

この本、図書館の棚に並んでいたので、なんとなく借りてみたのですが、面白かったです。
生物多様性の保全、環境問題などに関わる内容です。
読書の楽しみとは、新たな知識を更に増やす(上に積む)ことにではなく、
「信じている」とすら自覚していないほど自分にとって当たり前であった「知っていること ・ 自明のこと」があっさりと崩され、「知らなかったこと」に変貌する、「新たな仕方で見える」(ダルマ落としのように、重なって安定しているものをゴソッと抜かれる)、そこに読書の楽しみがあるのでしょう。
これは内観 ・ 瞑想など含め、生における体験全般に言えることで、プラスではなくてマイナスの、引き算の体験、そして認識の転換の体験に、ある程度の年齢がいってから先の、生きてることの楽しみ ・ 快感があるのでしょう。

書評「自然はそんなにヤワじゃない」: 森林ジャーナリストの「思いつき」ブログ

文明論として、この本も連想しました。
『銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎』

その他、関連しそうなもの

『害虫の誕生―虫からみた日本史』 (ちくま新書)

『「自然との共生」というウソ』

KOSMOSの覚書

先ほど調べ物をしていて、たまたま見つけたのですが、こちらのブログ、なかなか面白いです。
趣味が私に似ています。

KOSUMOSUの覚書/ウェブリブログ

印象的だった文章。

それに悲しみには、幸福感の中には絶対ありえないような一種の深さがある。
幸福感の中には何か浅いものがある。
笑いはきまって浅薄な感じがする。
涙は常に深い感じだ。
もしあなたがいつも幸福でありたかったら、あなたは浅い人間に、表面的な人間になるだろう。
ときには、悲しみの深みに、暗い深み、陰うつな深淵に落ちることも善いことなのだ。
両方とも善い。
そして人は、この両方の内に全面的に在るべきだ。
何が起ころうとも、その中に充全に入っていきなさい。
泣くときには、泣くことそのものになるがいい、踊るときには踊りそのものになるがいい。
そうなったら究極なるものがあなたに起こる。

もしあなたが、あなたに起こることすべてに対して証人であることができたなら、そのときにはあなたは家(ホーム)に戻ったということだ。

これはOSHOの言葉だそうです。

ケン・ウィルバー – Wikipedia

瞬間瞬間の綱渡り

順境の人は感謝を知らず、逆境にもまれ苦しんだ人が感謝を知っている。
私たち凡人は痛い目に遭わなければ、人生で最も大切なものが見えないのである。

……

夜半目覚めて静かに思えば、私はよくもこれまで無事に生きてこられたものだと思う。
人目には平凡な人生に見えても、まことに危ない綱渡りの連続であった。
この綱渡りは、これからも命のある限りは続くであろう。

……

朝、目を覚ましたら「ああ、ありがたいな、今日も自分をこの地上に生かせて下さるのか」と、まず感謝の祈りを捧げたい。

……

どこまで孤独寂寞に堪え得るかということが、指導者の資格を計る大切な尺度であろう。
「人を相手とせず、天を相手とせよ」といった南洲は、孤独沈痛の人であった。

『歩むもの』から

……

生活の全体は一瞬一瞬にあります。
この一瞬一瞬が挑戦なのです。
それに不適切に出会うことが生における危機です。

クリシュナムルティ

脳から考える

『単純な脳、複雑な「私」』 池谷裕二

瞑想、内観、ボディワークに関わる話や、自由意志に絡む話が次々繰り出されていて、前作『進化しすぎた脳』を超えて、更に面白いです。

『つぎはぎだらけの脳と心―脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?』

Amazonの書評

インテリジェント・デザイン論に対する脳神経学者の反論
※ インテリジェント・デザイン論=知性ある設計者(神)によって生命が設計されたという説。
最後の最後に宗教が出てくるまで、著者の意図が読めず、散漫な印象が否めない。
脳にまつわるさまざまなトピックのうち、一見無関係な感覚と感情、記憶、愛、睡眠と夢を、なぜ取り上げたのかが、宗教の成り立ちを説明する8章で始めて明らかになるからだ。確かにこの8章は面白い。その8章から、脳に知的な設計者はいないという9章の結論につながってくる。