馴化と脱-馴化

この馴化と云う問題

これまで瞑想や内観に取り組んできて、また指導らしきことをしてきて、改めて感じるのは、人間の幸福にとって「馴化(じゅんか)」と云う問題は、非常な大きなテーマだと云うことです。

* また、こちらで行っている、瞑想、内観、ボディワーク、断食などすべての修行において、その成功や失敗、効果の有る無しに、この問題が深く関わっているということです。

この馴化(慣れ化 habituation acclimatization)と云う言葉、心理学の用語としては、以下のように使われています。

馴化 – Wikipedia
馴化:心理学用語集 サイコタム

順化とも書き、順応とも言う。
生物が新しい環境、特に気候、高度、気温などの変化に適応して生存していくこと。

ここから、この言葉をより拡張して、独自の意味を含ませて使っていきます。

それは、心理的に、常に/既に与えられている・経験している物事・出来事は、自分の意識からして見えなくなり・透明となり、認識できなくなってしまう、と云う現象を示しています。

瞑想・内観の実践修行によって起こることは、その馴化の一時的な解除、「脱-馴化」の状態で、自分の心身や、置かれている環境を見ることができるようになる、と云うことだと思います。

たとえば、私たちは、(内観的に言えば)、家があって、今日のご飯の心配をしなくてよくて、布団に入って寝ることができて、多分、今晩、寝ている際中に襲われたりしないこと、に驚きはありませんし、感激することもありません。しかし、歴史上、そのようなことを心配し、怖れながら、日々暮らしていた時代はあった訳ですし、そこから開放されたしばらくの期間(日数)は、そのことに、大きな安心感・幸せ感を感じていたと思います。

あるいは(瞑想的には)、私たちは、この身長150cm~180cmくらいの、細胞数60兆~100兆個程度の多細胞生物ですが、その肉体を制御し、自由に移動したり、見たり、聴いたり、温度を感じたり、思考したりすることに、とてつもなく驚いたりすることは、通常ありません。しかし、瞑想によって、馴化(なれ・知識・イメージ・思考など)が一時的にでも停止すると、とてつもない高性能なマシーンと一体化し、それを制御しているのだということに驚きます。その驚きは、凄いものです。戦闘機一台が何億円とか言うけど、それとは比べ物にならない高性能な柔らかい機械、しかも壊れたら自動修復する機械を、一人一台与えられ、自由に使うことができるのです。
しかし、馴化のなかに居る限り、そのような素朴な驚きは無く、逆に、この肉体の不具合(腰が痛いとか、目がショボショボするとか、病気であるとか)や、不満点(容姿が気にいらないとか、身長が低いとか、胸が小さいとか)、そういうことだけが認識されます。

そして、(内観的に言えば)自分の置かれている条件、環境、家族、仕事などへの不満と、(瞑想的には)自身の心身(身体の状態・心の動き方)への不満の社会・世界拡張版が、「自分が生きている、この時代はろくでもない。世の中、どんどん悪くなっている。昔は良かった。いまは全てが劣化していっている」と云う感覚だと思います。

これらは、すべて馴化という、元々は、生物的な適応のため作られた、決して悪いものではない認識の癖によって引き起こされている、と私は考えています。

ある時代、ある社会が、それまでにあった社会的な問題を法的・社会制度的・経済的などに解決すると、まもなく、その改善点は(改善され、ストレス・苦しみを生まないが故に)特に意識されなくなり、認識の中で透明化していきます。
そうすると、次に、まだ解決できていない問題を生む社会的事象が意識に上ります。
それを解決すると、また次の問題と、ヒトの認識は常に不満点を見出します。
その結果、常に問題が増え、世の中がドンドン悪くなっているような主観的印象が生じます。
また、そのように「世の中がドンドン悪くなっている」と云うことを主張する情報が溢れているので、それに知らず知らず洗脳されてしまいます。

分かりやすい例を挙げれば、殺人事件の報道などです。
テレビなどを見ていると、現在、凶悪殺人事件が増えているように感じます。
「世の中、悪くなったもんだ」と感じさせられます。
しかし、実際には、現代日本は、記録的に殺人事件が少なく、平和な社会です。

なぜ、このような錯覚が起こるかと云うと、かっては普通の殺人事件など珍しくないので、一々報道されていませんでした。しかし、世の中が平和になり殺人事件の数が減ると、逆に珍しいが故に、全てニュースになるようになります。それを見聞きして、殺人事件が多く起こっていると感じる、と云うことです。

自身の個人領域の話であれば、瞑想や内観によって「脱-馴化」を行うことが可能ですが、
社会的な認識の場合、それだけでは足りず、数値的な比較によって、その自分の主観的感覚を修正するしかありません。馴化と云う問題がある限り、主観的な感覚が当てにならないからです。
(ですので、瞑想の指導者の方などでも、この「世の中が悪くなっている」と云う「錯覚」のなかで布教活動をされているように感じられる方も多いです)

以下の本などは、参考になるかと思います。

これらに共通しているのは、主観的印象・感覚ではなくて、具体的な数値によって比較を行っている、と云う点です。

『本当は怖い昭和30年代 ~ALWAYS地獄の三丁目~』

『環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』

環境危機をあおってはいけない(ビョルン・ロンボルグ著)を読んで

厳選読書館:ロンボルグ「環境危機をあおってはいけない」

で、私の言いたいことは、結局、こういうことです。

人間は、ヒトとして出現して700万年、うまく、よくやってきた。
そして、いま、これだけの社会を築き上げ、曲がりなりにも生き延びている。
まず、そのことに関心し、感激し、ここまで繋いできた先祖の創意工夫に感謝し、そのことを肯定し、喜ぼう。

そして、その上で、具体的な駄目出しをしていき、実現可能な修正案を出し、もっと良い社会を作っていこう。

まず、肯定があっての上での具体的・建設的な否定(修正・ダメ出し)であって、そのような仕方でなければ、上手くいかない、

いまのような、馴化の錯覚に基づいた否定によっては、建設的な社会変革は起こり難い、と云うことです。

私自身、30代頃までは、何を見ても「この世の中は腐っている、糞だ、全てがどうしようもない、最低だ」としか感じなく、その感覚に圧倒的なリアリティを持ってました。

瞑想とか内観とかの修行がある程度面白くなってきて、馴化の外れた状態で自身の心身を見る経験を繰り返しているうちに、徐々に、その自身の社会認識が変わってきて、そして、「この世界は、とにかく素晴らしいよね」と恥ずかしげも無く言えるようになったのは、この3、4年くらいのことです。まさか自分が、そんな風に感じる日が来るとは思ってもいませんでした。

ただ、いま感じるのは、「世界は良くない(悪くなって行っている、昔は良かった)」との認識は、一般社会・精神世界、瞑想宗教などが共通して嵌っている強烈な錯覚、強烈な洗脳であったのだな、と云うことです。
そこから出るのは、なかなか難しい。

脱−馴化が起こるとき

「馴化」とは、つまるところ、思考-記憶-比較という意識のはたらきによって起こる「慣れ現象」で、それを免れ・脱するための「脱-馴化」の方法論とは、クリシュナムルティ云うところの、「イメージなく見ること」「思考なく見ること」「知らない、と云う目で見ること」などの「known(既知)-unknown(未知)」系の話です。

クリシュナムルティ イメージなき観察

クリシュナムルティ 思考と時間

なぜ、馴化が外れると世界が「良きもの・美しいもの・かけがえの無いもの」として見えるのか?

それも、一つの思考(思想)による価値観ではないのか、洗脳ではないのか?

と云う疑問に関しては、

「なぜ、そうなのかは分からないけれども、確かに思考が静まると、心は、そのように世界を感じるのだ」としか答えられません。それが、なぜなのかは私にも分かりません。

* いまの、この話に於いては、ヴィパッサナー瞑想の行-苦(サンカーラ・ドゥッカ)などの話は抜いてあります。
それは、また別の(別種の)世界認識として、今は置いておいてください。

脱-馴化は、一度で終わる過程ではありません。

日常生活のなかでの絶えざる気づき-瞬間瞬間の脱-馴化-が無い限り、生き物の心は常に馴化に向かい、世界は、当たり前な、味気ない、取るに足りないものになっていきます。
これは、とりわけ思考を多く動かしているヒトと云う生き物において、強烈に起きる慣れ現象だと思われます。

私が言う、瞑想・内観とは、その脱-馴化の方法論です。

それは、できた/できない、と単純に二分できる話ではなく、やればやっただけ(つまり、思考・イメージが減れば減っただけ)自覚できる「程度問題」の話です。

私自身、それを自分にできる範囲で経験できているに過ぎず、常に「馴化」の働きの中で溺れ、苦しんでいます。

でも、そのなかで「脱-馴化」が少しでも起こると、やはり、その時々の苦しみから一時的であれ救われます。
ですので、方向として間違いはないかな、と思っています。

・不便の経験によって、便利さを理解する
・母の狭心症の体験(死によって、生が際立つ)
・馴化にはまっている日常の生の脱−馴化。
・死の経験、ニアデス体験、災害時体験など。

いま、この瞬間、肉体を持って、普通に存在できていると云うことが、当たり前のことではなく、とてつもなく微妙な仕組み・バランスによって成り立っている奇跡のような出来事なのだ、との自覚・認識。

それを、突発的な事故を待つのではなく、自分によって行うこと。

「内観は、統制された臨死体験である」

馴化を避けるための仕組みを(意識的に)修行システムに組み込むこと。それが要点である。
そのようなシステム作りをすること。

食べる物がある。寒さがしのげる。かけがえのない家族と一緒に暮らしていける…
そんな当たり前の、ささやかな幸福が、どれほど得がたいことか。
有るのが難しい、有り難い、ありがたいことだったのだ…と、すべてを失った時に、痛切に思い知らされる‥‥。

快楽の記憶はたちまち薄らぎ、楽受系の事柄は、どんなことも当たり前になっていく…

強烈な快感であればあるほど、脳神経細胞のシナプスは、快感ホルモンの受け皿を減少させる傾向がある。
最初と同じ強さの快感では、物足りない…と感じる所以である。
快楽の刺激はエスカレートし、欲望は肥大する…

同じことは、飽きる…
同じ強さの刺激に、不満を感じる官能。
受け取った刺激の意味を変換する、高度な精神の営みがなければ、「少欲知足」は難しい…

ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会) 今日の一言より