脱-馴化のための方法論

心理学の用語として「馴化(慣れ化 Habituation)」とは、「ある刺激がくり返し経験されることによって、それに対する反応が徐々に見られなくなっていく現象(馴れ、慣れ)」を指す。

が、ここでは、この概念を拡張し、独自の含みを持って使ってみたい。

「心理的/身体的に、常に/既に、自分の前に現前し、経験され、与えられている事象(できごと、ものごと)は、私たちの意識からして、透明になり、見えなくなり、認識できなくなってしまう」という意味において。

私たちが主観的に感じる幸福の度合い(生きてることの幸福感)は、(外的環境や置かれている境遇によるよりも、むしろ)その人の意識のなかで働いている「馴化(じゅんか)」の度合い(強さ・厚さ)によって決まるのではないか。

故に、その馴化を”外すこと、弱めること”ができたなら、(置かれている環境や境遇の変化を待つことなしに)より生きていることの幸福感を感じ・思い出し・取り戻すことができるのではないか。

そう考えたとき、気づきの実践修習とは、つまりは「脱-馴化」の技法(方法論)であり、それぞれの仕方での馴化の”外し方”に他ならない。

瞑想や内観、あるいはボディワークや断食が、うまくいっているとは、(心理的、あるいは身体的な領域において)馴化が一時的に解除されリセットされた(脱-感作の逆である)「再-感作」の状態が実現され出現している、ということであり、その境位において初めて、自身のココロとカラダ、置かれている環境、育ってきた境遇などを(馴化なしに)客観的に見、認識し、評価することができる。

それは多くの場合、自身における現実に新たに出会い直す経験であり、知っていたはずの(古い)ことを新たに見い出す体験(再発見)となる。

たとえば、私たちは、家があって、今晩の食事の工面の心配をしなくてよくて、布団に入って寝ることができ、多分、今晩、寝ているあいだ、他人や動物に襲われたりしないことを信じているし、そこに驚きや感激はない。

しかし、歴史上、そのような事態を心配し、怖れながら一日一日を暮らしていた時代はあったし、現在でも地域によっては存在するし、もしそこから開放されたならば、しばらくの期間は、そのことに大きな安心感・幸せ感を感じることでしょう。

あるいは、私たちは、身長150cm~180cmくらい、細胞数60兆~100兆個程度の多細胞生物ですが、自身がその肉体を制御し、自由に移動し、見たり聴いたり温度を感じたり、思考し予測し計画したりしていることに、とてつもなく驚き、たまげたりすることは、通常ありません。

しかし、(瞑想・ボディワークなどの)訓練により、その馴化が一時的にでも解除されると(それを起こしている私たちの内なる知識・イメージ・思考などの働きが一時的にでも弱まると)、とてつもない高性能なマシーンと一体化し、それを制御しているのだという事実に遭遇し(マジンガーZを操縦する兜甲児のごとく)驚愕します。その驚きは、強烈なものです。

もし、どこか別の銀河系に住む宇宙生命体の意識が、突然、地球に転生してきて、何の予備知識も無しに、いま、ここで活動している私の意識にスポーンと飛び込んだなら、目の前の見るもの聞くもの思考のはたらき、全てが驚きに満ちており、ぶったまげるでしょう。

「戦闘機一台が何億円」と言いますが、それとは比べ物にならないほど高性能な、柔らかい機械、しかも壊れたら自動修復する特別な機械を一人一台与えられ、何十年か自由に使う権利を有するのです。
この世に生きてるとは、そういう状態を許されているということです。

しかし、馴化のなかに居る(在る)限り、そのような素朴で剥き出しの驚きは無く、逆に、この肉体の不具合(腰が痛いとか、疲れ目だとか、病気であるとか)や不満点(容姿や体型が気にいらないとか、肌が綺麗じゃないとか)、それだけが認識されます。

そして、自分の置かれている社会的条件、環境、家族、仕事などへの不満や、自身の心身(身体の状態と性格、気質など心の動き方)への不満が、社会・世界に拡張されて、「自分が生きている、この時代(この社会、この世界)はろくでもない。世の中、どんどん悪くなっている。昔は良かった。いまは全てが劣化している」と云う感覚が生まれてきます。

それらはすべて、「馴化」という、(本来は決してマイナスのものではない)生物的な適応のため、生物の進化の過程なかで獲得された認識の仕組みによって引き起こされている問題です。

ある時代、ある社会が、それまでにあった社会的な問題を法的・社会制度的・経済的などに解決すると、まもなく、その改善点は(改善され、ストレス・苦しみを生まなくなるが故に)意識されなくなり、認識のなかで透明化されていきます。

そうすると、次に、まだ解決できていないが故に心理的軋轢を生む社会的事象が意識にのぼります。

それを解決すると、また次の問題…と、ヒトの認識は常に不満点を見出します。

その結果、常に問題が絶えず、増え、世の中が益々悪く・酷くなっているような主観的印象が生じます。
また、そのように「世の中が、どんどん悪くなっている」と主張するメディアなど情報が溢れているので、知らず知らずのうちに洗脳されていってしまいます。

分かりやすい例を挙げれば、殺人事件の報道です。

テレビなどを見ていると、最近、猟奇的な凶悪殺人事件が増えているように感じます。
「世の中、悪くなったもんだ」と感じさせられます。
しかし、実際には、現代日本は、記録的に殺人事件が少なく、平和な社会です。

なぜ、そのような錯覚が起こるかと云うと、かっては普通の殺人事件など珍しくないので、一々報道されていませんでした。しかし、世の中が平和になり殺人事件の数が減ると、逆に珍しいが故に、全てニュースになるようになります。
それを見聞きして、殺人事件が多く起こっていると感じる、と云うことです。

自身の個人領域(個人経歴や自らの心身)の話であれば、瞑想や内観によって「、その「脱-馴化」を行うことは可能ですが、社会的な認識の場合、それだけでは足りず、数値的な比較によって、その自分の主観的感覚を修正するしかありません。
馴化と云う問題がある限り、主観的な感覚が当てにならないからです。
(ですので、瞑想指導者の方の場合などでも、この「世の中が悪くなっている」と云う錯覚のなかで布教活動をされているように見えるケースも多くあります)

以下の参考資料に共通しているのは、主観的印象・感覚ではなくて、具体的な数値によって比較を行っている、と云う点です。

『本当は怖い昭和30年代 ALWAYS地獄の三丁目』

『暴力の人類史』 スティーブン・ピンカー

『繁栄― 明日を切り拓くための人類10万年史 』 マット・リドレー

ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』


私は、こう感じるのです。

人間は、ヒトとして出現して700万年、それなりに、うまく、よくやってきた。
現在、これだけの社会を築き上げ、曲がりなりにも生き延びている。
まず、そのことに感心し、ここまで繋いできた先祖の創意工夫に感謝し、それを肯定し、感激し、喜んでよいだろう。

そして、その上で、現在の社会のあり方に対し、具体的なダメ出しをし、実現可能な修正案を出し、研修開発し、細かく改善を繰り返し、もっと良い社会を作っていけばいい。

まず前提としての肯定があっての上での、具体的で建設的な否定(修正・ダメ出し)であって、そのような仕方でなければ、ものごとは上手くはいかない。

現在おこなわれている「馴化の錯覚」に基づいた否定によっては、建設的な社会変革は起こり難いのではないか、と。


私自身、三十代頃までは、何を見ても「この世の中は腐っている、糞だ。全てがどうしようもない、最低だ」としか感じなく、その感覚に圧倒的なリアリティを持ってました。人間社会に無関心であるが故に、自身の修行のみに没頭し、全振りしていました。

瞑想や内観の修行がある程度面白くなってきた三十代以降、僅かばかりでも「馴化の外れた状態」で自身の心身を見る経験が繰り返されているうちに、徐々に、自身の持つ社会認識も変わっていき(どうも、そんな思い込んでいたようなものではなかったようだ…)、そして、「この世界は、まずはとにかく素晴らしいよね」と恥ずかしげもなく言えるようになったのは、もっと歳を重ねてからのことでした。まさか自分が、そんな風に感じる日が来るとは思ってもいませんでした。

ただ、いま感じるのは、「世界は良くない(悪くなっていっている、昔は良かった)」との認識は、一般社会・精神世界・瞑想宗教などが共通して嵌っている(そして、そこから脱出するのが、なかなか難しい)強烈な錯覚、強烈な洗脳であったのだ、と云うことです。

「馴化」とは、つまるところ、思考(記憶に基づいた比較とパターン認識)によって起こる「慣れ現象」であり、それを免れるためには「脱-馴化」の方法論(やり方)が必要とされるのです。

クリシュナムルティ イメージなき観察

なぜ、馴化が外れると、世界が「良きもの、美しいもの、かけがえの無い、キラキラしたもの」として感じられるのか?

それも、一つの思考(思想)による価値観ではないのか、洗脳ではないのか?

と云う疑問に関しては、

「なぜ、そうなのかは分からないけれども、確かに思考が静まると、心は、そのように世界を見、感じるのだ」としか答えられません。それが、なぜなのかは私にも分かりません。

* いまの、この話においては、ヴィパッサナー瞑想の三相・行-苦(サンカーラ・ドゥッカ)などの話は意識的に抜いてあります。
それは、また別種の特殊な観察の訓練を経た上での、強烈な視力を伴った世界認識(あるいは脱-馴化のうえでの更なる脱-馴化の話)であり、今、ここでは触れません。
(禅やワンネス思想が、馴化→脱-馴化の話であれば、原始仏教が求めているのは、その脱-馴化を更に脱-馴化せよ、という指示なのかとも思います)

脱-馴化は、一度で終わる作業ではありえまえん。
日常生活のなかでの絶えざる気づき-瞬間瞬間の脱-馴化-が無いかぎり、生物の心は常に馴化に向かい、世界は、当たり前な、味気ない、取るに足りないものになっていきます。

これは、とりわけ膨大な記憶保持能力を持ち、思考を常に動かしているヒトと云う生き物において、最も強烈に起きる「慣れ現象」だと思われます。

こちらで行う「瞑想・内観・ボディワーク」とは、脱-馴化のための技法/方法論です。

それは、「できるか/できないか」の単純な二分法の話ではなく、やればやっただけ(つまり、思考・イメージが減れば減っただけ)自覚できる「程度問題」の訓練です。

私自身、それを自分に可能な範囲で経験しているに過ぎず、常に「馴化」の働きの中で溺れ、苦しんでいます。

でも、そのなかで「脱-馴化」が少しでも起こると、やはり、その時々の苦しみから一時的であれ救われます。
馴化に抗うしか、抗い続けるしかない― それに間違いはない、と思います。


不便の経験によって、便利さを理解する(再発見する)。
当たり前が当たり前じゃなかったことに気づく。
たとえば、水道のない暮らし、お湯の出ない暮らしを経験したあとに、現代の標準的な住居に戻って、その有り難さに感動する、など。

母の狭心症の体験。
死に直面する経験によって、それまで感じていなかったレベルで生が際立つ。
これまで心臓が痛みもなく休むこともなく動き続けてくれていたことに気づく。
馴化にはまっている日常の生の脱−馴化。死の経験、ニアデス体験、災害時体験など。

いま、この瞬間、肉体を持って、普通に存在できていると云うことが、当たり前のことではなく、とてつもなく微妙な仕組み・バランスによって成り立っている奇跡のような出来事であったのだ、との自覚・認識を持つに至る。

それを、突発的な事故を待つのではなく、自身の意識的な操作によって行うこと。

「内観は、統制された臨死体験である」

馴化を避けるための仕組みを、自覚的に修行システムに組み込むこと。
それが要点である。

食べる物がある。寒さがしのげる。かけがえのない家族と一緒に暮らしていける…
そんな当たり前の、ささやかな幸福が、どれほど得がたいことか。
有るのが難しい、有り難い、ありがたいことだったのだ…と、すべてを失った時に、痛切に思い知らされる‥‥。

快楽の記憶はたちまち薄らぎ、楽受系の事柄は、どんなことも当たり前になっていく…

強烈な快感であればあるほど、脳神経細胞のシナプスは、快感ホルモンの受け皿を減少させる傾向がある。
最初と同じ強さの快感では、物足りない…と感じる所以である。
快楽の刺激はエスカレートし、欲望は肥大する…

同じことは、飽きる…
同じ強さの刺激に、不満を感じる官能。
受け取った刺激の意味を変換する、高度な精神の営みがなければ、「少欲知足」は難しい…

ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会) 今日の一言より