反応系の技法

観察系と反応系の関係について

・ある人の、いま現在置かれている状況は、その人の信念を正確に映し出す鏡である。

・「ままならぬ」からこその修行、「ままならぬ」からこそ磨かれる

日々、生きていて、本当に「ままならぬ」ことの連続で、「ままならぬ」ことばかりが起こり続けるのですが、「ままならぬからこそ修行になる」と考えて、その労苦のなかで、自分を磨いていく。
そう思いながら日々の問題に対処し、自分を鍛えていくしかない。

マイナスの条件から、プラスの経験・洞察を生み出す心構え・向き合い方。
マイナスの条件をプラスの経験に転ずる力を持つこと。

・それは、日々握られ続けるドアノブのようなもの― その年月が自分を磨き、艶を出し、味わいのある人となす。

・幸福というのは10%は環境が決めているが、残りの90%はその環境を脳がどう処理するかで決まる。

「怒り」の処方箋

怒りは、「悪いもの」だから無くさなければならないのでも、「良いもの」だから肯定してもいいのではなく、人にとって「つらい」「苦しい」ものであり、「カラダとココロに悪い、害がある」ものだから無くさなければならない、と考えます。

怒りは体を緊張させ、縮め、硬くします。

この胸腹の、こわばり・塊を持って生きることは苦しいことで、長期に渡る、怒り ・恨みの温存は、ヒトの心と身体を駄目にします。

怒りが発生すること自体が問題と云うよりも、それが何時までも身体反応として残ってしまうことが問題です。→ 『奇跡の脳― 脳科学者の脳が壊れたとき』の九十秒ルールを見よ。

● 幾つかの処方箋

・ボディワーク系

体を緩めること、特に胸・腹の緊張、こわばりのリリース。
クリアリング

・反応系

言い聞かせ 知的考察・理解による対処 →反応系アファーメーション
肯定的イメージ反転法
慈悲の瞑想など
ラメッシ的理解によるもの

・ 気づき系

内観
心理療法的技法(POP、コアトラ、セドナなど)
ヴィパッサナー

クリシュナムルティ的理解

許しの近径

ラメッシ・バルセカールの教えでは、「罪悪感からの解放」など、「自分のなかの悪感情に対して、更に悪感情を重ねる」「怒りに対して怒る」「嫌悪を持っていることを嫌悪する」と云う、修行者が陥りがちな悪循環・ループによって、現在の事実・自分を観察するに必要なエネルギーが浪費されるのを防ぐ、と云うところに、まず第一のポイントがあるように感じます。

しかし、同時に、この観念は、返す刀で、他人に対する「怒り、うらみ」を意識の深層の部分から切ってくれる、切除の役立つように思います。

通常、私たちは、たとえば親友との関係で「どうしても困っていいるから助けてくれ、と、お金を無心され、かなり迷ったけど、自分の大切に取っておいた貯金を切り崩して、ほとんど貸してあげて、そのときは泣き出さんばかりに感謝され、必ず一年以内には返すから、と言われたのに、結局、一年経っても何の連絡もなく、こちらから連絡取ろうとしても梨のつぶて、何度か催促しているうちに不仲になり、そのうち第三者から、あの人が貴方の悪口言いふらしているよ、と聞かされ、その内容は事実無根の、自己弁護のためのかなり酷いものであった」などという事件とか、「自分の同姓の大親友と自分の奥さん(パートナー)が、実はずっと前から浮気をしていて、自分はまったく何も知らず気づかず、心を許して付き合っていたのだが、それがある切っ掛けで発覚した」とか云う出来事などが起こると、そうとう腹が立ち、こいつ殴ってやろうか、とか、まずは思いますが、瞑想などしている人ならば、どうにか色々な肯定的な考え方(反応系の思考)→反応系アファーメーションや瞑想による気づきなどで、どうにか表面的には、気づき、受け入れ、受容して、ある程度の時間をかけて、「それは自分にとって、起きるべくして起こった良きことだったのだ、甘んじて受け入れよう」と云う認識には至るでしょう。

が、実際には、心の奥底では、その相手に対する「怒り・腹立ち・軽蔑」の気持ちは残余することが多いでしょう。
その場合、主観的な感覚としては「怒り」ではなく「哀れみ」を感じる、などの形で、その怒りはくすぶり続けるかも知れません。

この「怒り」の感情の正当性の根拠は、「相手は、そうしない(その行為を選ばない)こともできたのに、そうしなかった」「違う態度・行為をすることもできたのに、あの(最低の)行為をした」と云う人間・世界認識にあると思います。

たとえば、私たちは、虫とか魚とかが、自分の気に入らない、やって欲しくない行動を起こして、それによって自分が被害を蒙ったとしても、虫や魚にそれほど怒りません。

あるいは、今日は天気がいいから、どこかに遊びに行こうと思っていたら、突然、豪雨になった際にも、がっかりして、「あ~あ…」とは思いますが、天候とか地球とかに対して怒ることはしません。

それは、虫や地球の自由意志で、それが起こされたとは考えずに、なるべき必然で、その現象が起こったと理解しているからです。

ラメッシは、すべての人間の行動・言動も、それと同じく「自由な意志、自由な選択」は、どこにも介在していないと説きます。
親友の裏切りも踏み倒しも、そこに本人の何の自由も選択も、自分にとってもっと良い、他の別の行動を選ぶ余地も、存在していないと説きます。

この人間・世界理解の徹底によって速やかに、他人に対する「うらみ・怒り」は解けていくことでしょう。
やるべきことは、このことの徹底した考察と納得です。

「私を傷つけた人々すべてを完全に許します」との「許しの祈り」というものを目にしました。

この祈りを、自身の内面で、言葉通り遂行するには、おそらくラメッシ的な「自由意志の不在」の認識徹底が必要だろうと思うのです。

そうしないと、怒り・恨みと云う本当の感情の微妙な抑圧となってしまうか、あるいは、それが「高みからの見下し」と云う形に変形されて、相手との関係に残るのでは、と。

現実・現象の根本的受容、受け入れ、全托、許し、感謝— それらすべてに「人間の心に対する決定論的理解の徹底」は関わってくるように思います。

良い出来事、悪い出来事

(ある方への文章から)

人が、その人生において経験する状況・出来事が、究極的・絶対的な意味において、良いものであるのか悪いものであるのかは、どの時点で結論を下すかによって、どのようにもなり得るものだと感じます。

一年前に起こった、自分の人生をメチャクチャにした災難・災いと思っていたことが、一ヶ月後には、自分の人生を劇的に変換させた、最高の祝福・神の恩寵と感じられているかもしれない。

そのように、ある出来事が、魂の成長と云う観点において、究極的に「善なる」出来事であるのか、「不幸なる災い」であるのかは、最終的に、人生の終わりの最後の瞬間(あるいは、更にその先に)になるまで分からないことなのかもしれません。

あなたが現在見舞われている過酷な状況が、祝福すべき良き出来事であるのか、同情されるべき不幸なる事態であるのかは、私には分かりません。

ただ、そういう大変な状況が日々の生活に起こっている以上、その出来事に、そのつど、自身の中心(奥底)の声に耳を澄ませ、耳を傾けながら、瞬間瞬間、自身を通して最善の対応が為されることを神に(あるいは運命に、あるいは何かは分からない絶対なるもの SomethingGreatに)祈りながら、一瞬一瞬、泳ぎ抜いていくしかありません。

その、為した対応が、良きものであったの間違ったものであったのかは、誰にも、どこまで行っても分からないことです。

今、自分にできる、自分に考えられる最善だと思えることを、祈りを持って、愛を持って為すしかありません。

結果は神に任せ、また成功か失敗かの判断も、自分の限定され、短いスパンで考えられた、小さな頭で出すことなしに。

ただ、私自身の(これも正しいかは分からぬ)印象で言えば、最終的な決断(実際行動)は、内観研修を受けられた後に、もう一度、再度熟考されてからにした方が良いのではないかと思います。

内観後に、もしそれまで考えられていた「最善なる対応」とは異なった「最善・解決策」に思い至ったときに、それを方向修正できるだけの余地を残されておかれることをお勧めしたく思います。

以上、私の書きました提案が、良いもの・適切なものであるか間違ったものであるか、私自身にも分かりません。また責任も取れません。

しかし、今の私に思いつける最善だと思える提案を書かせていただきました。

● 慈悲の瞑想 慈しみの随念

Aham avero homi, abyaapajjo homi,
sukhii attaanam pariharaami.

Sabbe sattaa averaa hontu, abyaapajjaa hontu,
sukhii attaanam pariharantu.

私が、怒りのない、憎しみのない人間であらんことを。
安楽に過ごせんことを。

生きとし生けるものが、怒りのない、憎しみのないものであらんことを。
安楽に過ごせんことを。