サマタ/ヴィパッサナー(止観)について考えるには、まず「仏教の三流派(所依の経典による三大別)について触れておく必要がある。
- パーリ仏教― 初期仏教がスリランカ・ミャンマー・タイなどの南方に伝わったもの。
- 漢訳仏教― 主に、初期から中期のインド大乗仏教が、中国、朝鮮、日本と伝わったもの。
- チベット仏教― 主に、中期から後期のインド大乗仏教がチベットに伝わったもの。
パーリ仏教
サマタ(巴: samatha)
ヴィパッサナー(巴: vipassanā)
チベット(インド)仏教
シネー、シャマタ(梵: śamatha)
ラントン、ヴィパシャナ(梵: vipaśyanā)
漢訳仏教
止(漢訳) 奢摩他(音写)
観(漢訳) 毘鉢舎那(音写)
三つの伝統それぞれが、サマタ/ヴィパッサナー(シャマタ/ヴィパシャナ、シネー/ラントン、止/観)についての理論とそれに基づいた技法を保有するが、それらを「同じ主題(事柄)についての異なった理解(議論)と実践方法の集積」と捉えると混乱するだろう。
ここに見られるのは、同じ用語を、それぞれの宗派・伝統が、それぞれ異なった概念(内容)として使用し(かつ、そのことに対する自覚が曖昧なまま)、それぞれまったく異なった実践理論の宇宙を築いてしまっている事例の典型的なものである。
今から書き進めようとしているのは、あくまでも、パーリ仏教系のサマタ/ヴィパッサナー(samatha-vipassanā)という言葉を私がどのように理解しているかに限った話である。
事実とイメージ
(たとえば)「直径20cmの真円」をあらわす情報量は多くない。
「おおよそ直径20cmの円」をイメージとして心に思い描き、10秒間保持する、という課題も、そう難しくないだろう。
では、子どもが手書き(フリーハンド)で紙に書いた、だいたい同じ大きさの円を自分の前に置き、それを細かな歪み、デコボコ、線の太さの変化などを認識しながら観察し続ける、という課題はどうだろうか。
その場合、まず、どのレベル(スケール)で観察したら「できてる」と言えるのか、という疑問がある。
日本の海岸線は全部で何kmか、という問題がある。
これには、一意的な答え(正解)がない。
自然地形の測定(測量)の場合、どの倍率で認識するかによって、答えは如何様にも変わってくるからである。 海岸線のパラドックス – Wikipedia
手書きの丸を観察するには、相当な認識の努力(脳の負担)が求められる。
しかし、イメージとしての丸は、倍率に影響されない。
それは、いわばデジタルデータとして、細部を持っておらず、どこまで拡大しても輪郭は滑らかである。
自然界にある音や温度、光などの情報は連続的な値で変化します。この連続した値
を「アナログ」と呼びます。
一方、コンピュータの世界では、情報は飛び飛びの離散的な値で扱います。この離散
した値を「デジタル」と呼びます。
例えて言うと、アナログとデジタルは実数と整数のような関係にあります。直線上のど
のような点も表現できる実数はアナログ、特定の点しか取れない整数をデジタルとイ
メージしてください。
また、連続的な情報であるアナログ信号を取り扱う回路を「アナログ回路」と呼び、離
散的な情報であるデジタル信号を取り扱う回路を「デジタル回路」と呼びます。
以上の喩えでは、時間軸での変化(時の流れ)は考慮されていない。
ここに、時間の流れによる観察対象の変化という条件を加えたとき、現実での経験により近づく。
手書きの丸が、瞬間瞬間、変化して姿を変えてゆく世界…
変化するものと変化しないもの
イメージ(概念)を対象とした瞑想をサマタと言い、
変化する現象を対象とした瞑想をヴィパッサナーと呼ぶ。
変化する事象(現象)の観察か、脳内イメージ(表象)の反芻か。
身体意識
身体(実感)↔ 身体(イメージ・像)
外界知覚
知覚(情報)↔知覚(イメージ・像)
意識界
思考・情動(そのもの)↔思考・感情(イメージ・像)
法と概念(事実とイメージ)
私たちが現実で観察する何であれ、それを、その対象を指し示す「言葉・概念・イメージ(心象)」を剥ぎ落とした状態で、その言葉によって指し示されている「当のもの」「実感そのもの」に意識の焦点を当て、それを感じることができるだろうか。
小学校3年生の頃だったと思います。
理科の授業で夜空の星座について習いました。
オリオン座、北斗七星… それが、夜の空の、どこに、どのように見えるのか、図解入りで説明を受けました。
その後、夜空を眺めると、いつでも、すぐにオリオン座を見つけることができるようになりました。
成人してから、科学啓蒙書を読むのが好きになり、宇宙論や天文科学の本に親しむなかで、色々なことを知りました。
1000年とかの時間の単位でみると、星の位置は固定されておらず、流動的に動いていること(つまり、いま、このカタチで、この星座を見ているのは、この時代の我々だけで、未来の人類は違うものを見ること)
星座は、それぞれの民族の持つ文化・神話などに基づく連想でしかないので、ギリシャ・西洋文化以外のところでは、星を全く違う連なりで(異なる生き物などになぞらえて)見ている(認識している)こと
星座を構成している星は、実は、地球以外の方向から見たら、何光年も前後にずれており、横並びに並んではいないこと(つまり、この地球からの視点でのみ、意味ある連なりをしているように見えているに過ぎないこと)
など、多くのことを楽しみつつ学びました。
それらの結論として、「オリオン座とは、現代日本人として教育を受けてきた私と云う個人の頭の中にあるだけの妄想で、外界に存在してはいない」と云うことを理解しました。
しかし、その上で夜空を眺めてみても、私にはオリオン座が見えてしまいます。
いまでも、七つの星が細い線で繋がれ、事実、ひとまとまりの図形のように見えてしまうことに変わりはないのです。
以上の話において、「星のキラメキ=法・事実存在するもの」で、「オリオン座=思考・イメージ・概念」なのですが、かように「概念を外して世界を観る」ことは難しく、これと同じことが、私たちが認識する全て-聴覚・視覚などの外界知覚、思考・感情・欲求などの意識界、身体感覚・身体運動を主としたカラダの世界で瞬間瞬間起こっています。
1 身体運動感覚に対しての身体イメージ 身体と身体像(イメージ)
2 外界知覚に対しての知覚イメージ 知覚と知覚像(イメージ)
3 そして自身に対しての自己イメージ 思考と心象(イメージ)、による認識。
この「概念・イメージを外して自身の内外の事実を見ることができるかどうか」に、ここで云う瞑想の成否はかかっています。
「むなしさ、寂しさ、満たされなさ」という言葉(概念)と価値判断を介在させずに、それら感情・感覚に直接触れ、感じ、味わったとき、それらは実際、どのようなものなのでしょう。
それを行ったときに、普通と違ったかたちでの変化と救いが起こる可能性が出てきます。
クリシュナムルティ 「イメージなき観察」 「命名なき観察」
以下、活元運動の現場を例に。
異言・グローサー(ホーリーゴスト、ゴスペル)
マントラ、歩行瞑想、呼吸の観察の場合。
ほとんどすべての場合、(厳密な言葉遣いをするなら)ヴィパッサナーという名前でやられている瞑想はサマタ的な概念の混入を免れていない。
ヴィパッサナーは常にサマタに頽落する可能性を持っている。
あるいは、そもそもヴィパッサナーと言えるレベルに至っていない。
なぜ、このような問題が起こるのかといえば、そもそもの言葉の意味を厳密に捉えてないから、適当の修行しているからだと思う。
ヴィパッサナーが純粋に、厳密な意味でヴィパッサナー(法の観察)として成り立つことなど通常起こらない。それは、実践行の極みにおいて稀に実現する、言葉通り「稀有な」瞬間である。
ここで言いたいことは、「自分たちはヴィパッサナーやっている」「あいつらは(駄目な)サマタをやってる」と言って済ますのではなく、自分たちのやっているヴィパッサナーというものが、実は、そう誇れるほどのレベルにはなく、限りなくサマタ的な混雑物まみれの内容を、その自覚のないまま行っており、これでは仏教だブッダだなどと誇ってられない、ということに気づき、おのれのレベルを認め、そこから一歩ずつでも修行の純度を上げていけるよう、態度を改め進んでいった方が良い、という提言です。
・通常の理解(気づきの絞りが開いているか閉じているか)で言えば、そこには二つの瞑想法があるというよりも、X(sati)とY(Samādhi)、二つの軸の割合(配分)の違いであると理解したほうが良い。
・どちらの技法も使えたほうが有利である。二つのツール(道具/武器)を持っていれば必要な場面に応じて使える。
・場合によっては、イメージ瞑想の方が即効性を持つことも多い。
・ヴィパッサナー(純粋観察系)と慈悲の瞑想(反応系、イメージ系)のバランスの良い組み合わせが必要である。
「分離ある観察」と「分離なき観察」― ヴィパッサナー瞑想に対する疑問に答えて
昨今、良く見られるヴィッパサナー瞑想(主にマハーシ・メソッド)批判の典型として、以下のようなものがある。
1. サティ(気づき)による主客分化の強化について
サティをする側(主体)と、サティの対象(客体)の固定化、分離感の強化、主体と客体のさらなる分離、自我の強化がされるような感覚があること。
自我と云う隔てを壊さなければならないのに、その隔てが強化されるような感覚がある。
気づきという意識の働き自体が自我から起こっているので、やればやるほど主客の分離間が強まる感覚があること。
瞑想は主客融合・主客未分である(になる)はずなのに、その逆の結果となる矛盾。
2. ラベリング(言葉による気づき、確認)について
ラベリングにより、思考、雑念、怒り等を認識・識別する際、自己嫌悪感という瞋(怒り)が自然発生してしまい、かえって、それらへの執着・固着を深めてしまう点。
「痛み」「怒り」などと云う否定的なラベリング自体が対象に対する嫌悪感を強化し固着させてしまう。その観察対象自体も強めてしまっている感があること。
瞑想は、善悪・有無などの対立概念による分別を超える道のはずなのに、その分別・概念自体を強化すると云う錯誤。
3. 中心対象の設定について
中心対象をあらかじめ設定すると云う意志的、意図的な観察は、あるがままの現実の受動的な観察になり得ないこと。
真の瞑想は、徹底的なこれらの排除によって成り立ちうるのであり、あるがままへの気づきを説くヴィパッサナー瞑想が、実際の瞑想技法として、このような不自然なことをしているのでは、ブッダの真意にも反するのではないか、間違っているのではないか。
→ これは主にクリシュナムルティなどを読み込んでいる方から起こりやすい批判点です。
以上をまとめると、
「サティ=ラベリングの使用、中心対象の設定は、主体と客体を区別するマインドの働き(主客分離感)を強めるものであり、その技法と、進める境地には限界がある」と云うものです。
同じようなヴィパッサナー瞑想に対する認識・評価を、ケン・ウィルバーは、
1.one taste = 大乗仏教、アドバイタ、その他の伝統の説く、非二元の意識のレベル
2.witness = ヴィパッサナー瞑想など絶対観照者の観察のレベル
との(ある種の)階層づけ・ランクづけによって説明します。
以下は、ある方の書かれたウィルバー思想の要約です。
ウイルバーの(魂の)成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。
例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。
同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。
Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。
最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、と色々と表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。
「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」
つまり、ヴィパッサナー瞑想では観照者の意識まではいけるけれども、非二元の「一味」のレベルには行けない、あるいは、非二元の意識の認識を邪魔する、との理解です。
この様なヴィパッサナー瞑想の理解・認識・位置づけは、ケン・ウィルバーに限らず、ステファン・ボディアンなど、現代アメリカの論者全般に共通するものですが、私とはかなり異なっています。
逆に、観の瞑想のなかでそのような分離感の残滓があると云うこと自体、ヴィパッサナーとしてはレベルが低く、初期仏教の理論では「初禅」の段階に達していない、「心一境性=サマーディ」が完成していない状態での観察であるとしか言えません。
その分離感(現象を見ている観照者として「私」の感じ)は、自身の微細な思考-イメージの蠢きを完全に対象化・観察・見切ることができていない故に継起・存続し、完全な対象化(余すところなき、見漏らしなきサティ)ができれば、そのような対象との分離感は即座に消えます。
そこから初めて真性のヴィパッサナーが始まる、と理解しています。
私は、禅、アドヴァイタ系、クリシュナムルティ、その他、現在沢山居られる瞑想世界の指導者の言われていることが、「細かい話を除いて、大まかな部分では、結局言っていること(説いている境地)は皆一緒である」と云うのに、ほぼ同意できるのですが、ことヴィパッサナー瞑想(原始仏教、歴史的人物としてのブッダ)の教えと修行システムと到着地点に関しては、そこに回収できない異質性を感じております。(断言できるほどの経験や論拠は、まだ無いので「感触」と云うに留めています)
また、すべての人にとって、それ(原始仏教的なさとり)を選ぶべき必然性があるかどうかは別問題です。
また、この話は、どちらが「良い悪い」とか、「間違い正しい」とか「上位下位」ということを言っているのでは無く、「違う・異質である」と云うことのみを言っております。
よって、これらの方の大乗仏教やアドヴァイタの理解に関しては疑問は無いのですが、ことヴィパッサナー=アビダルマ仏教の理解に関しては、かなりの問題を感じます。
純粋な(ヴィパッサナーもどきではない)ヴィパッサナー瞑想の修行経験がないのではないか、と感じてしまうのです。
これは、普通の意味では良書だと思えるラリー・ローゼンバーグさんの『呼吸による癒し』を読んでいても感じることで、この方は、私が理解するところの「真性ヴィパッサナー」を理解できていないのではないかと思っています。(よって「無常・苦・無我」などの原始仏教の根源の部分の説明が曖昧で、大乗仏教的に薄められた感じになっています)
ただし、それは通常のレベルの指導の場合、特に問題で無く、ラリー・ローゼンバーグさんは、非常に良い、開けたタイプの瞑想指導者なのではないかと感じています。
これら良く見られる批判・疑問・認識のズレは、私からすれば、
・ それらの技法の狙い・意味が分かるところまで実際にヴィパッサナーをやっていない
・ そもそも、ヴィパッサナー瞑想それ自体を正しく実習できていない
・ 正しく理解できている指導者に習っていない
・ 何らかの(瞑想や悟りに関する)先入観、背景理論を持った状態で、ヴィパッサナーの実践をしている(つまり、ヴィパッサナーとして正しく、正確に実践できていない)
のどれかから出てくるものではないかと思います。
これらの疑問・疑義は、理論的な説明によって解くことが可能である、と考えております。
このページの論考で、それを行なっていくつもりでおります。
なぜ、このことに時間を注ぐかと云うと、ヴィパッサナー瞑想と云う貴重な独自性を持った瞑想法(人類の精神的遺産・伝統)が、この程度の理解・誤解によって投げ棄てられるのは、あまりにも残念だと感じるからです。
私にできる範囲の理論的な説明・釈明によって、潜在的にヴィパッサナーに縁がありつつ迷っておられる方のヒントとなればと思います。