空間認識― ヒトにおける上下・前後・左右

まず地球上(重力下)の、自身を中心とした任意の空間を考えます。

そこに、二次元(平面)の縦と横のマス目(グリッド)の線を引きます。(升目つきのノート、あるいは方眼用紙)

次に、高さという次元を加えていきます。
(立方体のジャングルジム、あるいはルービックキューブ)

その三次元空間に二足で直立している自身を置いてみます。

1 上下(鉛直線)

そこに無数の雨が降ってきます。(この場合、風の影響は無いものとする)

雨は重力の方向に従い、地球の中心へ、天から地へと降り注ぎます。

伝統的な大工さんが家を建てるとき、まず最初に全ての基準として、鉛に紐をつけた「さげふり」と言われる道具を使い、垂直基準をとります。
次に「水盛り」と呼ばれる、液体を使った水平基準出しへと進みます。

私たちの身体の抜本的立て直しおいても、事情は同じはずです。

以前、ミステリーハウスと言われる出し物を経験したことがあります。室内のすべての垂直・水平基準が歪められた室内にしばらく滞在しただけで、自身の感覚(内的基準)が大きく影響を受けてしまったのには驚かされました。

2 前後(矢状面>正中面)

鉛直線に従い降る雨のなかから、直立する自身からして中心を通る任意のものを選ぶ。

この場合、二つの中心があります。

一つ目の中心は、身体の前面から背面へと抜けるライン―― 折り紙を二つに折り、ハサミで任意の形に切り抜いた後、開くと、左右対称の図形ができる。
その際に、図形の中心に残る、折り目の跡ー そのラインが、ここで云う「一つ目の中心」であり、このラインに沿って形成される自身の(唐竹割りにされる)切断面(正中に沿って体を左右に等分する面)を刀禅においては正中面(せいちゅうめん)と呼びます。
これは、各自に一本、一つしかない正中矢状面(せいちゅうしじょうめん)です。

次に、この正中面と並行する、直立する自身からして前後方向に走る縦断面を考えます。

これを矢状面(しじょうめん)と呼び、これは(認識の細分化のレベルに応じて)無数に存在します。

自身に向けて吹く風を仮に視覚化できたなら、それは矢状面沿いに吹いているはずである。

3 左右(冠状面>側中面)

次に二つ目の中心へ進みます。

側面より直立する人体を対象として観たとき、前面と背面(お腹と背中)があります。
あるいは、主観的に(内側から)我が身の置かれている空間を感じたとき、右と左と云う区分があります。

その区分に従っての身の切断面(横断面)が、正中冠状面(かんじょうめん)であり、これを刀禅では側中面(そくちゅうめん)と呼んでいます。

ここでも、側中面は、その人において各自一本(一面)しかないが、冠状面は無数にあります。

サバやアジを調理する際、まな板に置くてみると背中側の青い部分とお腹側の白い部分にわかれる。
その色の切れ変わるラインが、大まかに、ここで言う側中面です。

* 魚の例えのついでに触れれば、カレイ(ヒラメ)は進化の過程のなかで、身体を横に倒し、片側(右、あるいは左)を地面(海底)に触れさせて生きている生物である。
故に、カレイ(ヒラメ)の正中面(矢状面)は地面と平行であり、そくちゅう(冠状面)が天地の方向と合っている。
エイは、体を立てたまま、身を上下に圧縮し、ヨコ広がりになった生き物であるので、私たちと同じ方向である。

タチウオは、海のなかで、常時、立って泳いでいる。
この場合、身体の構造(作り)で見るのか、生態(行動)で見るのかで話は違ってくるが、ヒトと対等に扱うならば、タチウオも、頭部からしっぽに向けて鉛直線が走っていることとなるだろう。

* 側中面の認識の難しさには、それが正中面と違い、視覚的に明確な左右対称などのかたち、姿を持たない点、また直立したことに伴う重力による潰れの影響などが考えられます。

この三つの線(面)と云うベースのうえに、(横向きの、ダルマ落とし的な意味での)水平(横断)面、あるいは立方体としてのグリッドを惑星(あるいは彗星)の動きのように斜めに通過する刃筋面などが加わり、重ねられていくことによって、私たちの現実の身体認識と運動が構成されています。