井筒俊彦 『意識と本質』

ネット上で見つけた抜粋から

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 P136
 ここ、目の前に一本の杖があるとする。絶対無分節の存在リアリティーは「いまここでは」杖として自己分節している。だが、それは杖であるのではないと禅は言う。「本質」で固定された杖ではない。ほかの何でもあり得るのだ。(この禅的存在風景の中では)ものの、ものとしての存在根拠、すなわち「本質」はない。無「本質」でありながら、しかもそれぞれのものがそれぞれのものとして現象している。

P146-7
 禅は言うまでもなくいわゆる悟り、見性体験を中心にする。骨身を削る修行を積んだ僧は、普通これを三つの段階に分ける。第一段階は禅の道に入る前の時期。世間の人と同じく、世間の目で山を山、川を川として見る。世界は有「本質」的にきっぱり分節されている。
 しかし参禅してある程度目が開かれてくると、同一律と矛盾律によって厳しく支配されたそれまでの経験的世界が一挙に変貌する。図式的に言えばこれが「第二段階」。山は山でなく、川は川でなくなってしまう。山も川も、あらゆる事物が「本質」という留め金を失う。それまで、いわゆる客観的世界をぎっしり隙間なく埋め尽くしていた事物、すなわち「本質」が融けて流れ出す。存在世界の表面に縦横無尽に引きめぐらされていた分節線が拭き消される。もはや山は山「である」という結晶点をもっていない。
 そして、そんな山や川を客体として自分の外に見る主体、我、もそこにはない。すべてが無「本質」、したがって無分節。もっと簡単に言えば「無」。これが、マロニエの木の根の姿に嘔吐したサルトル=ロカンタンの見た世界だ。だが禅ではこれに続いて次の第三段階があるゆえに、その存在体験は、サルトルの実存体験とはまるで違ったものになってしまう。
 第二段階で「本質」を奪われ、分節を失った経験的事物は、次の第三段階へ移ると、また全部戻ってくる。しかし、分節は戻るが「本質」は戻ってこない。存在分節があるからには、もはや無一物の世界ではない。山は山として存在し、川は川として存在する。だがそれらの山や川には「本質」がないのだ。

 P151
 事物の「本質」は、人間の倒錯した意識の働きによって現われてくる、と大乗仏教は言う。経験世界ではたらく表層意識は、いたるところに「本質」を見る。だがそれは仮構であり虚構であって、真に実在するものではない。本当はありもしない「本質」を、あたかも実在するかのごとく仮構して、様々な事物を自体的存在者として固定し定立する。この表層意識本来の働きを、仏教では一般に妄念と呼ぶ。
 表層意識が「本質」仮構的に働くから、事物の分節が起こる。このことは裏から言えば、意識が「本質」仮構的に働きさえしなければ、存在は紛紛たる分節の様相を消して、その本源的「一」性に還るということでもある。

 P155
 禅的に体験される無分節は、個々の事物に「本質」がないことを理性的に理解することとは全然違う。もともと関係性(因縁)によって成立したものだから、それ自体には独立した実体性がないはずだ、と理屈で結論することではない。事物の無「本質」性をこの仕方で理解するだけなら、人は表層意識の領域を一歩も出ていない。そして表層意識で理解されたものは、何であれ、必ず有「本質」的に分節されている。「無」すらこの次元では真の意味の無分節ではない。「無」という本質を持つ有「本質」的分節なのだ。表層意識はしょせん分節機能から離れることができない。

 p156-61
 あらゆる事物の無「本質」性、存在の絶対無分節のこの深層的了解が成立したとき、「真空妙有」という事態が出現する。そこは、何も弁別できないという点では無であり無分節だが、しかしそこに何かが無いわけではない。「有而不可見」、つまり何か存在しているが目には見えないという事態である。
 これを「表層意識的」に言えば、人に認識をもたらす深層意識の奥底には、分節の「種子」が隠れていると考えることができる。そのことは、この次元での分節、すなわち無「本質」的分節で現出する事物が、言語による文化的枠組ごとに微妙な差異を示すという事実から了解できる。同じ参禅修行に入った場合でも、サンスクリット語を母国語とする修行僧に現れる事物(山や川)のイマージュと、中国語を母国語とする修行僧に現れる事物(山や川)のイマージュは、同じ種子から生まれた米が一粒ずつ違うように、微妙に違うのである。チベット僧の描くマンダラと中国僧の描くマンダラは受ける印象がかなり異なる。

 P177
 無「分節」者が不断に自己分節していく、その分節の仕方は限りなく自由である。人間が行う、コトバの文化的制約に束縛されながら行う存在分節は、無限な様式の中の一つであるにすぎず、一つの枠組のなかでの人間特有の感覚器官の構造がそうさせているだけである。

 P203
 われわれの感覚器官の構造は、何事によらず経験的世界の、質料性でしっかり固められた存在秩序に頼ろうとする傾向を持つ。しかしながら、絶対無分節の深層的事態を「見」た修行僧にとっては、存在性の真の重みは「比喩」の方にある。比喩とは、存在次元の「移し」によって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的存在次元に「運び移され」て、そこで異次元的に「宙に浮いて」いる存在者である。「比喩」に存在性の重みがないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば密教マンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。
 圧倒的な実在感は、事物の「元型」が人間の深層意識に形象的に映されていることに由来する。ユングはこの「元型」が人格のアイデンティティ形成において重要な役割を持つことを、理論的にも実験的にもきわめて説得的に明示した。