紅桜のフリースタイルラップ

私は元々、日本語ラップに対して(気恥ずかしさなどを感じる場合が多く)冷淡で、興味を持ってこなかったのですが(唯一、気を入れて聴いたことあるのは、Shing02くらいです)、しばらく前、何故かYoutubeで、「R-指定 vs 晋平太」の、このバトルを見て、その即興での日本語の繰り出し方と即座に音に合わす技術レベルの高さに感心して、へぇ~、と思ったのですが、

フリースタイル (ラップ) – Wikipedia

その後、その動画を見たせいで、YouTubeのオススメに晋平太さんの動画が出てきて、その中で、「紅桜」と云う人がいて、その人はすごい、という話を聞いて、「この人がすごいというのは、どんな人なんだろう」との好奇心から覗いてみて… ぶっとばされました。こいつ、スゲー、となりました。

このバトルの字幕付き

なんというか…英語文化(黒人文化)の輸入品としてのラップとかではなくて、この人のは、演歌というか、浪曲とか講談とか、よくは知らないですが、日本の伝統的な歌謡文化が身体に染み付いているような(何をしても、それ以外の匂いがしないような)、純日本的身体をもった存在で、こんな人がいるのか、とかなり驚きました。
なんというか、(私には)作り物感が全然しなくて異質だと感じました。
あと自分が広島出身で、広島弁は普通に話せるので、お隣である岡山県の方便がそのまま理解できて、その味がわかりやすい、というのもあるかと思います。
HIPHOPとかラップも、いよいよ完全に日本化されてきてるのだな、と感じました。

あと、もし、若い頃の全盛期のビートたけしがラップしたら、こんな感じじゃないのかな、とも思いました。
なんだか雰囲気が似ているのですよね。

死、生、愛、行為

この数ヶ月間で、とくに自分で探してではなく、何となく流れと成り行きの軽い気持ちで観てみたら、すごく響く作品だったという映画と漫画が一つずつあって、今日はそれについて書いてみたいと思います。

一つは、

『残酷で異常』(字幕版)

と云う映画。

もう一つは、

『走馬灯株式会社』 – Wikipedia

と云う日本の漫画です。

この二つの作品に共通するのは、既に取り返しのつかない、指し迫った状況― 自分の死― に直面した人間が、死から照らし返して自分の人生(生)の意味を考える・知る。死からの逆照射による自分の人生の(再)認識、と云う構造と、もう一つは、純粋でも無私でもない、自我に支配されたみじめでちっぽけな個人が、それでも、自分の人生の終局に際し、自分が愛していると思っていた(思ってきた)相手に、自分にできる最善のことを為そうと努力する。愛を行為化し、死んでいこうとする。その場合の「愛」とは、自分の欲求・欲望・希望・喜びではなく、相手の側の喜び・幸せを実現しようとする、そのことによって、結果、生物としての自分の本性に反した、自分が最もしたくない、最も苦しい行為を選ぶ、と云う展開にあります。

・死から逆照射された生の認識
・愛の行為化

また、まず「自分の人生を自分の視点から内的に振り返る(再経験する)」
次に、その同じ出来事を「関係する、相手の視点から(相手の視点から録画されたカメラの映像によって、再経験する」という構造が、こちらで行っている集中内観(吉本内観)、それによって起こる認識の転換の構造と場面そのもので、そのことにも、とても驚きました。
特に、『残酷で異常』の後半のある場面は、「これって、まるまる内観じゃん!」と叫びたくなるくらい、それ、そのもので、よく脚本と映像化をできたものだと関心しました。

内観
・自分の視点から人生を振り返る
・相手の視点から人生を振り返る
そのことによる過去のオーダーの組み換え・認識の転換

興味ある方は、ぜひ御覧ください。

また、少し似た味わいを持つ作品として、死役所 – Wikipediaと云う漫画も、オススメできると感じました。独特の味わいを持つ作品で、色々考えさせられます。