瞑想コース

気づきとは?

自己観察・自己認識・自己理解→変容

気づきと意識の違い 再帰的な意識 見ることを見る、聞く事自体を聞く、意識している事自体を意識する。考えていること自体を考える(認識する)

◆ 何のために瞑想するか?
今ある嫌なものをなくしたいか、いま無いもっといいものを手に入れたい(味わいたい)か、のどちらか。
現状否定・不満か、未来の欲望か。

◆ 瞑想(ボディワーク)と内観の対比

・今→ 過去
・認知・知覚→情緒・感情
・自己/宇宙(単独性)→自己/他人・他者(社会性・関係性・間主観性)

瞑想は、垂直で、内観は、水平な世界。

瞑想とボディワークは、身体性・精神性の目盛り(配分)の問題

◆ 仏教。3つのグループ 所依の経典・言語 - パーリ仏教圏、漢訳仏教圏、チベット仏教圏。

◆ マハーシ 3つの特徴

1  常に(いつでも、どの瞬間も)全てに(あらゆる対象に)気づいていることの重視。
2 ラベリング(ノーティング)の定着から始めること。
3 中心対象の設定。

・射撃ゲーム、皆殺しの例え
・関ヶ原の戦いのたとえ
・夜の灯台 霧海の南針のたとえ
・朝の駅の雑踏の中での時計の音のたとえ

◆ 原始仏教と大乗仏教(ワンネス思想)との相違

・五蘊皆苦と五蘊皆空 禅とヴィパッサナー

「あるがまま」は、苦か、楽か?

・自然主義(融合思想)と反自然主義

・「ひとつになる」と「離れて観る」

・観照者意識と、観照者の不在(「離れて観る」と「そのものになり切る」)

● 「分離ある観察」と「分離なき観察」 ヴィパッサナー瞑想に対する疑問に答えて

昨今、良く見られるヴィッパサナー瞑想(主にマハーシ・メソッド)批判の典型として、以下のようなものがある。

1. サティ(気づき)による主客分化の強化について

サティをする側(主体)と、サティの対象(客体)の固定化、分離感の強化、主体と客体のさらなる分離、自我の強化がされるような感覚があること。
自我と云う隔てを壊さなければならないのに、その隔てが強化されるような感覚がある。
気づきという意識の働き自体が自我から起こっているので、やればやるほど主客の分離間が強まる感覚があること。

瞑想は主客融合・主客未分である(になる)はずなのに、その逆の結果となる矛盾。

2. ラベリング(言葉による気づき、確認)について

ラベリングにより、思考、雑念、怒り等を認識・識別する際、自己嫌悪感という瞋(怒り)が自然発生してしまい、かえって、それらへの執着・固着を深めてしまう点。

「痛み」「怒り」などと云う否定的なラベリング自体が対象に対する嫌悪感を強化し固着させてしまう。その観察対象自体も強めてしまっている感があること。

瞑想は、善悪・有無などの対立概念による分別を超える道のはずなのに、その分別・概念自体を強化すると云う錯誤。

3. 中心対象の設定について

中心対象をあらかじめ設定すると云う意志的、意図的な観察は、あるがままの現実の受動的な観察になり得ないこと。

真の瞑想は、徹底的なこれらの排除によって成り立ちうるのであり、あるがままへの気づきを説くヴィパッサナー瞑想が、実際の瞑想技法として、このような不自然なことをしているのでは、ブッダの真意にも反するのではないか、間違っているのではないか。
→ これは主にクリシュナムルティなどを読み込んでいる方から起こりやすい批判点です。

以上をまとめると、

「サティ=ラベリングの使用、中心対象の設定は、主体と客体を区別するマインドの働き(主客分離感)を強めるものであり、その技法と、進める境地には限界がある」と云うものです。

「分離ある観察」と「分離なき観察」

同じようなヴィパッサナー瞑想に対する認識・評価を、ケン・ウィルバーは、

1.one taste = 大乗仏教、アドバイタ、その他の伝統の説く、非二元の意識のレベル
2.witness = ヴィパッサナー瞑想など絶対観照者の観察のレベル

との(ある種の)階層づけ・ランクづけによって説明します。

以下は、ある方の書かれたウィルバー思想の要約です。

ウイルバーの(魂の)成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。

例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。

同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。

ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。

Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。

最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、と色々と表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。
「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」

つまり、ヴィパッサナー瞑想では、Witness、目撃者、観照者の意識まではいけるけれども、非二元の「一味」のレベルには行けない、あるいは、非二元の意識の認識を邪魔する、との理解です。

※ この「one taste=一味」とは、元々「一味平等」と云う禅の言葉です。

この様なヴィパッサナー瞑想の理解・認識・位置づけは、ケン・ウィルバーに限らず、ステファン・ボディアンなど、現代アメリカの論者全般に共通するものですが、私とはかなり異なっています。

※ 逆に、観の瞑想のなかでそのような分離感の残滓があると云うこと自体、ヴィパッサナーとしてはレベルが低く、初期仏教の理論では「初禅」の段階に達していない、「心一境性=サマーディ」が完成していない状態での観察であるとしか言えません。
その分離感(現象を見ている観照者として「私」の感じ)は、自身の微細な思考-イメージの蠢きを完全に対象化・観察・見切ることができていない故に継起・存続し、完全な対象化(余すところなき、見漏らしなきサティ)ができれば、そのような対象との分離感は即座に消えます。
そこから初めて真性のヴィパッサナーが始まる、と理解しています。

私は、禅、アドヴァイタ系、クリシュナムルティ、その他、現在沢山居られる瞑想世界の指導者の言われていることが、「細かい話を除いて、大まかな部分では、結局言っていること(説いている境地)は皆一緒である」と云うのに、ほぼ同意できるのですが、ことヴィパッサナー瞑想(原始仏教、歴史的人物としてのブッダ)の教えと修行システムと到着地点に関しては、そこに回収できない異質なものがあるとの感触を持っています。(断言できるほどの経験や論拠は、まだ無いので「感触」と云うに留めています) 
(また、すべての人にとって、それ(原始仏教的なさとり)を選ぶべき必然性があるかどうかは別問題です)
 (また、この話は、どちらが「良い悪い」とか、「間違い正しい」とか「上位下位」ということを言っているのでは無く、「違う・異質である」と云うことを言っております)

よって、これらの方の大乗仏教やアドヴァイタの理解に関しては疑問は無いのですが、ことヴィパッサナー=アビダルマ仏教の理解に関しては、かなりの問題を感じます。
純粋な(ヴィパッサナーもどきではない)ヴィパッサナー瞑想の修行経験がないのではないか、と感じてしまうのです。

これは、普通の意味では良書だと思えるラリー・ローゼンバーグさんの『呼吸による癒し』を読んでいても感じることで、この方は、私が理解するところの「真性ヴィパッサナー」を理解できていないのではないかと思っています。(よって「無常・苦・無我」などの原始仏教の根源の部分の説明が曖昧で、大乗仏教的に薄められた感じになっています)
ただし、それは通常のレベルの指導の場合、特に問題で無く、ラリー・ローゼンバーグさんは、非常に良い、開けたタイプの瞑想指導者なのではないかと感じています。

これら良く見られる批判・疑問・認識のズレは、私からすれば、

・ それらの技法の狙い・意味が分かるところまで実際にヴィパッサナーをやっていない

・ そもそも、ヴィパッサナー瞑想それ自体を正しく実習できていない

・ 正しく理解できている指導者に習っていない

・ 何らかの(瞑想や悟りに関する)先入観、背景理論を持った状態で、ヴィパッサナーの実践をしている(つまり、ヴィパッサナーとして正しく、正確に実践できていない)

のどれかから出てくるものではないかと思います。

これらの疑問・疑義は、理論的な説明によって解くことが可能である、と考えております。

そして、このページの論考で、それを行なっていく積もりでおります。

なぜ、このことに時間を注ぐかと云うと、ヴィパッサナー瞑想と云う貴重な独自性を持った瞑想法(人類の精神的遺産・伝統)が、この程度の理解・誤解によって投げ棄てられるのは、あまりにも残念だと感じるからです。

私にできる範囲の理論的な説明・釈明によって、潜在的にヴィパッサナーに縁がありつつ迷っておられる方のヒントとなればと思います。

以上の主題について、少しづつ文章化していきたいと考えております。

◆ 2つの組み合わせ

sati(時間分解能) シャッタースピート 動体視力 高速度撮影
samadhi(空間分解能)ズーム・フォーカス 視力の良さ 望遠レンズ

の2つのバランス良い組合せ・成長 → 瞬間定(ヴィパッサナー・サマーディ)

◆ 「五蘊皆苦」と「五蘊皆空」―テーラヴァーダと大乗仏教

なぜ、一般的な瞑想宗教では、あるがままの現実を観察したとき、「五蘊皆空」―現象は空である、すべては私である、となるのに、真性のヴィパッサナー瞑想では「五蘊皆苦」―あるがままの現実は「苦(ドゥッカ)」であるとなるのか。

これは、単なる言葉や文化、時代の違いで説明できるレベルの問題ではなく、修行法、到達地点全体に関わる深刻なズレであり、重要な問題です。

このことについて書き進めていく予定です。

・生物学的一瞬

『動物は世界をどう見るか』

p.182~
サンプリング時間 カメラの露出時間
500分の1秒と15分の1秒 単位時間当たりのコマ数
映画 1秒に24コマ

CFF(臨界融合頻度)=視覚での時間的分解能(解明度)
ミツバチの視覚的一コマは人間の5分の1程度。

『意識のなかの時間』 エルンスト・ペッペル

『生物から見た世界』 ユクスキュル

・サマタは空間的な心の集中(空間分解能)、
サティは時間的な心の集中・分解(時間分解能)

原始仏教的な洞察知とは、過去・現在・未来に渡って変わらない私が存在するという誤解を解くことです。
この誤解は、時間的に微細な、非常に速い、心の認識レベルで起こっています。
ですから、認識を時間的に詳細に分解するサティが必要になるのです。

サマタで心をいくら空間的に絞り込んでも、時間的な誤解を解くことはできません。
サマタで心が一点に集中しても、身体が消えたとか、気持ちいいとかで終わってしまいます。
瞬間瞬間の自分が別人であるという事実を納得するには、微小な時間間隔で思考を切り捨て続け、
「いまここ」の感覚だけに集中する、サティが必要になるのです
問題は、「いま」の最小単位が、どの程度のものか、というところにあります。

・ 空間的融合と時間的分解 禅とヴィパッサナー samadhiとsati

・ 包括的意識→satiと、排除的集中→samadhi

・ 包括的な意識(Inclusive)と排除的集中(Exclusive)
前者は全体的な、偏らない方向性を持ち、後者は限定された、狭い範囲への方向性を持つ。実際の意識はこれらが適当に混合されている状態である。

気づき(Awareness)と集中(concentration)~集中しないと進歩しない~

キ:OSHOによれば、気づき(Awareness)とは集中(concentration)ではないと語っていますが?

ア:それは目覚めた存在にとっての真実だ。

キ:目覚めた人、ですか?

ア:そう。目覚めていない人の事ではない。

キ:どういう事ですか?

ア:つまり、意識が安定すればもはや集中する必要はない。それはもっと自然に機能する様になる。
しかし目覚のプロセスにおいては、気づき(Awareness)の中心をたえず覚えておく必要がある。
だから焦点を合わせ集中する必要があるのだ。
その(OSHOの)言葉は誤って受け止められやすい。今あなたがその文字通りにやって焦点を合わせないでいるとあなたは単に進歩しない。

*サニヤシンの一般的常識のワナとして、「瞑想は集中ではない。」というOSHOの言葉がある。
目覚のプロセスのどのレベルにワークするのかによって、この言葉を誤って使いがちなので要注意。
OSHOも晩年の講話;禅シリーズでは、特に最後の瞑想リードの時に、徹底的な集中を要求した。
「目を閉じなさい。あなたの身体が完全に凍結するのを感じなさい。今があなたの内側に
入る正しい時だ。エネルギーの全てを集めて、あなたのトータルな意識を針先のように尖らせて、
あなたの存在の中心に突入しなさい。とてつもない緊急性が必要だ、あたかもこれが最期の瞬間
であるかのように…」

◆ ヴィパッサナーと禅

理論なき観察をしたとき、なぜ一方は、空で、もう一方は、苦なのか

見る目の訓練に、理論が前提されているから

(前段階で、動体視力の違い(時間分解能の違い)と云う結論が出てる上で)

理論を離れた「あるがまま」

では、どちらが「あるがまま」に近いのか?

レントゲンとMRIの喩え

細胞を染めるときの染料の違い

観察するための器具(装置)が、観察される内容をきめてしまう。

理論(偏り、条件づけ)なしには、視力を上げられない

あらゆる思考・理論を排除しての観察を目指す禅・ヴィパッサナーにおいても、
観察の理論負荷性の問題はなくならない。

あらゆる条件づけをなくした理論は、具体性を失い、最終的に、何も言えなくなる。
するどい観察には、限定が必要。

あらゆる理論を脱け出た観察は無理
では、何が最善か?

複数の観察機械による画像を見ることで、よりリアリティの近似値に近づける。
相対化できる。

そのためには、いま自分が見ているものが、理論依存的なものだとの了解が必要。

相対化

観察の理論負荷性

http://www.geocities.jp/gakumon_mutofu/01rironhukasei.html
http://www.geocities.jp/gakumon_mutofu/01rironhukasei2.html

究極の境地として万物と一体となるのは、ヴェーダンタに限らず、世界の多くのシャーマニズムで語られています。それに対し、仏教のような完全な止滅を説く教えはなかなかありません。

ウイルバーの成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。
例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。
同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。

ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。
Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。
最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」

非二元派では、integration,統合がキーワードですが、テーラヴァーダで言及されないのは、目指しているものが違うからでしょうか。
前者では、あらゆる顕現を心の本質(もしくは仏性、アートマン、ブラフマン、一者、空)の投影と見て統合することを重視しています。
どちらも現象に対して一切思考による編集作業をやめるという点においては共通しています

ただあるのは依存して生起する無常のセンセーション、感覚経験だけであって、「私」とか「ブラフマン」とかいうのは妄想の産物に過ぎないというのが仏教の立場でしょうか。

>> Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。

>> 最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

私には、〈超個的観察者〉の確立の後、その「観察者」が、一気に万物の側になだれ込み、崩れ込み、「分離なき、見ること」が起こる―そこでは、〈見るもの〉は〈見られるもの〉である―というケン・ウイルバーの立論自体は、なかなかいい線いってるのではないかと思えます。

もし、完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱―が確立されたならば「目撃者と目撃されるもの」との二元性は、完全に払拭されているはず。

なぜなら、その二元性、その分離感を作りだしているのは、他ならぬ、対象化(自覚)することができていない内面のうごめき―思考・感情・判断などの微細なうごめき―であるだろうからです。

つまり、vipassana・禅・クリシュナムルティなどが求めている「観察」とは、

完全な対象化・自覚(それが生起したことに―たとえ、それが、どんな微細な想念であれ―気づいていること)―サティ―と、全面的な(その観察対象との)融合、無分離性―サマーディ―との混ぜ合わさった特殊な「観察」である、ということなのでしょう。

禅ではこの特殊な観察状態を、「“そのもの”に“なり切ること”」などと表現します。
聞こえている音になりきり、感じた感覚になりきり、自分の思考、感情になりきり、なりきりしていく。それによって、あらゆる問題を破砕していく―それが禅の行き方ですね。

だとすると、
> しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いている・・・

というのは、実際には、微細なレベルでの「同一化」の「解除」―つまり、あらゆる内的/外的現象の自覚と対象化、離脱(捨)―はできていないのではないか? (つまり、完全な観察、全的な観察ではない。見落としがある。)
できてないがゆえに、「目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いて」しまうのではないか、と云うことになります。

→ Krishnamurti 分離なき観察

「現象に対して、一切思考による編集作業をやめ」たとき、そこに見えるのは、一切行の「苦(ドゥッカ)」性である、とテーラヴァーダは明白に言明し、「苦でも楽でもない、苦楽を超えた、あるがままだ」と、大乗仏教は確約する―この明らかな不整合を、「‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないか」と言って済ますことはできないのではないか、というのが現在の時点での私の見解です。

> 分からないのは、一切の存在の本質を苦(ドゥッカ)とし、煩悩を厳しく否定する立場です。そして、大乗仏教が巧妙に煩悩を肯定しているとする批判です。

> サティとは、苦とか快とかという判断以前にありのままに気付きを入れて行くことではないのか、というのが私の素朴な疑問です。そして、煩悩のありのままに気付き受容するとき、煩悩への囚われから解放されていくのではないか。大乗仏教の中には、そういう考え方が在ると思います。それは、煩悩の肯定ではなく気付きと受容による、煩悩からの解放なのではないかと思うのですが。

> テーラヴァーダ仏教が、煩悩を否定と肯定というレベルで語るところがよくわかりません。生起するあるがままに気付きを入れるサティの考え方と、私の中でうまく整合しないのです。

この疑問の解消は、偏に「行‐苦(サンカーラ・ドゥッカ)」―五蘊皆苦―の理解に懸かっていると思います。
そして、その理解が生じるか否かは、結局、(厳密な意味での)「ヴィパッサナーの実践」に懸かっていると思います。

>ヴィパッサナー瞑想の修行法には非常に強い共鳴を感じる。しかしその背景をなすテーラヴァーダ仏教については、引っかかりがあってすんなり受け入れられない。

>一番の引っかかりは、やはり現象の一切を苦(ドゥッカ)として完全に否定することだ。

> ヴィパッサナー瞑想は、生滅変化する現象の在るがままに気付いて確認するサティの修行に励む。サティによって現象をあるがままに受け入れる訓練を続けると、やがて心が作り出すものと真に実在するものとの違いがはっきりと分かり、現象の真の姿が洞察される瞬間が来るという。
> また、心が描き出す妄想・幻影・現実の歪曲のたぐいがはっきり見えると、同時に自我(エゴ)が、元来は存在しない幻影であり錯覚であることが分かるという。
> 以上は納得できる。大乗仏教も基本的には同じことを言っていると思う。凡夫は言葉と思考を介することで「対立と区別の相」の下のこの世界を見る。しかしそれは世界の真実の相ではない。蜃気楼のごとき幻の世界を真実と見間違えているに過ぎない。言葉による区別・対立・分別を超えた世界のあり方が空性と呼ばれる。

> わからないのは、テーラヴァーダ仏教では、幻影を振り払ったときに洞察される世界が、苦と捉えられ、大乗仏教ではそれが、空と捉えられるとことだ。ヴィパッサナー瞑想もエゴや言葉による歪曲以前のありのままの世界を見るという点は、大乗仏教と同じであるはずなのに、なぜそれは、空ではなく快や幸福と対立する苦なのか。現象を苦と規定したとき、それはもう「対立と区別の相」での見方ではないのか。

まず、理解しておかなくてはならないことは、
テーラヴァーダで言う「苦」には、

・苦‐苦
・壊‐苦(変易苦)
・行‐苦

の三つのものがある、と云うことです。(これらは、単なる形式的な教理・分類ではないはずです。)

そして「五蘊皆苦」の根拠は、最終的には、この、存在の「行‐苦」性にあるのだと思われます。掲示板での議論は、この三つの「苦」が入り乱れ、少々混乱しているように見受けられます。Noboruさんの引っ掛かっておられる問題は、「行‐苦」のレベルでの問題であるはずです。

「生滅」「壊滅」を目の当りにしてに、怖れ、おののき、戦慄す、という「行‐苦」の体験は、vipassanaの修行行程のなかでは、(たいてい)預流道になる(つまり、悟る)直前に初めて起こることのようです。

ここで言われている「苦」が、常識的な意味での「ああ、苦しい~、苦痛だ~」と感じることであるとは思えません。

つまり、(今の時点での)私たちにとって「行‐苦」とは、「話としては分かるけど、受け入れられない」ものではなく、「話としてすら理解できていない、まったく見当のつかない」タイプの苦であるはずです。

前に、どこかで、誰かが「苦の理解こそが、仏教(原始仏教、ブッダの説いた教え)の全てである。苦を理解できたなら、解脱する」と言っているのを聞いたことがありますが、まさに、その通りなのでしょう。

「苦」の理解こそが重要なのでしょう。

「思考停止して、現象世界をあるがままに観察したとき(如実知見)、「一切行‐苦」を感ず、「一切行‐苦」を感じるが故に、「厭離」が生ず(この「厭離」と云う言葉、言葉どうりに読むなら、厭い離れるということですよね。決して、「淡々と」とか、「あるがままに」とか「受容する」とかではなく)、「厭離」が生じたが故に解脱する」と云うのは原始経典に繰り返し現われる表現であり、これ自体を、「これはブッダの言ったことではない! ブッダの死後、小乗仏教徒が捏造した話だ!」などというのは、あまりに無理があります。

この、「如実知見→「一切行‐苦」の洞察→厭離→解脱」を否定するならば、ブッダも、原始仏教も否定しなければならないでしょう。

それに対し、「苦なる世界→如実知見→苦/楽の超越(無自性・空の洞察)→現在涅槃(当処即ち蓮華国)」というのが、大乗仏教一般の悟り観でしょうか。

—–

「体験者」と「体験」との二元性が崩れ去り、分離なき《見ること》が起こるとき―
そのとき、その「体験」を、「体験者」がなくなって「体験」のみが残った(「体験」のみに“なった”)、と表現することも、分離した対象としての「体験(内容)」がなくなって、「体験者―真実の自己・本来の面目―」のみが残った(が、露わになった、顕現した)、と表現することも、あるいは、「体験者」も「体験」も、何もかもがなくなった(限界線、境界線のないemptiness)、と表現することも可能だと思います。

自己がなくなって、無我になった―無我になって見れば、全てが自己だった、というのは禅宗の決まり文句―たとえば、こんな感じです。

「禅の真髄は自己を忘ずるにある。真修功成り、身心自然に脱落して、真箇自己を忘ずる時、天地皆自己ならざるなきを自覚して、手の舞い、足の踏むを知らずじゃ。
されども無始却来粘着縛着の自己を忘ずるの容易ならざることを、忘れることはできぬ。」
表詮(肯定的表現、生かす)と、遮詮(否定的表現、殺す)―そのどちらが使われているのかは、(禅の場合)文脈によって判断するしかないですね。

そのことを踏まえたうえでなら、おっしゃっていることには何の抵抗も感じません。
多分、同じことを言ってるのでしょう。

私は、通常「体験」と云う言葉を肯定的には使いません。
大体、カッコつきの意味で使います。

ですから、この話題を引き続き続けるなら、
「経験」と「経験者」と云う(私に使い慣れた)言葉に切り換えて進めることを望むのですが・・・
いかがでしょうか?

で、結局、問題は、
「覚醒を体験したときには既にその体験者がいない」ということを、如何にしてこの身で実験し、
検証(あるいは反証)するか、と云うことに尽きるでしょう。

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◆ 「大乗仏教とテーラヴァーダ」  Herenowさん

…. 合宿の最中にあった地橋さんの「大乗仏教及びヒンドゥとテーラヴァーダの比較」の話は私にとっても深刻です。私の現在のレベルでは究極の境地は先のことなので,今は大した違いではないと思っているのですが。お互いの相違点ははっきりしているが、結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないかというのが、現在の私の解釈ですが、なかなかの難問です。

 ケン・ウイルバーなどはこの点について
1.witness
2.one taste
の二つにはっきり段階分けし、one taseteの方がレベルが高いとしています。
 ただ阿羅漢がウイルバーの言うwitness、目撃者に該当するのか難しいところです。

 大乗仏教側としては、涅槃の中に消え去るのはエゴであり、究極の悟りではない。サンサーラとニルヴァーナの二元性を超越した菩薩が理想であるとしています。
 それに対しテーラヴァーダでは、生存への欲求があるから菩薩という思想を作り出しているのだと批判しています。

 どちらの言い分ももっともです。究極の境地として万物と一体となるのは、ヴェーダンタに限らず、世界の多くのシャーマニズムで語られています。それに対し、仏教のような完全な止滅を説く教えはなかなかありません。

 ただ仏教の説く涅槃を、一神教で説く永遠の天国とははっきりと区別すべきでしょう。
どう思いますか。

> 妄想の働きとは、サティによって私達に気付きを与えることなのですか?
> 妄想の変化に常に気付いていることは自分を知るという意味があるのでしょうか?
> サティすることで、妄想と同化しない自分を確立する為必要なのでしょうか?

 もちろん、最終的には、妄想によって、妄想を通して何かを見るのではない、あるがままの認識にいたることを目指しているのですが、しかし、その過程では、妄想にも意味が、働きがある。
 何らかの妄想が出るということは、必ずそこにその人特有のひっかかり、とらわれがあるということでしょうから、それをサティによってしっかり自覚していくと、妄想の原因となったものへの洞察につながっていくのでしょうね。
 しかも、それは排除や抑圧ではなく、気付きによる洞察であり、受容であるといってよいと思います。
 ただ、「妄想」「妄想」とサティを入れているだけでも、やがて重要な洞察につながるイメージが出現したりして、転換することがあるようですよ。大切なのは、気付き続けるということでしょう。

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◆ 「Re:大乗仏教とテーラヴァーダ」  Noboruさん

・・(略)・・・・

> 合宿の最中にあった地橋さんの「大乗仏教及びヒンドゥとテーラヴァーダの比較」の話は私にとっても深刻です。‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないかというのが、現在の私の解釈ですが、なかなかの難問です。

 私も、体験は同じで言語化の違いと思いたいですね。しかし、地橋先生ははっきり否定するでしょうね。私は、これからテーラヴァーダを学んで整理していかなくてはなりません。

> ケン・ウイルバーなどはこの点について
> 1.witness
> 2.one taste
> の二つにはっきり段階分けし、one taseteの方がレベルが高いとしています。

 1と2の違いを、簡単に説明してもらえますか。

> 大乗仏教側としては、涅槃の中に消え去るのはエゴであり、究極の悟りではない。サンサーラとニルヴァーナの二元性を超越した菩薩が理想であるとしています。
> それに対しテーラヴァーダでは、生存への欲求があるから菩薩という思想を作り出しているのだと批判しています。
> どちらの言い分ももっともです。究極の境地として万物と一体となるのは、ヴェーダンタに限らず、世界の多くのシャーマニズムで語られています。それに対し、仏教のような完全な止滅を説く教えはなかなかありません。

 なるほどね、しかし私は止滅ということがまだよくわかりません。

> ただ仏教の説く涅槃を、一神教で説く永遠の天国とははっきりと区別すべきでしょう。はい、これは本当にその通りだと思います。ただ、「一神教で説く永遠の天国」との違いは歴然としているにしても、では大乗仏教で言う悟りの境地と何が違うのか、私にはまだよくわかりません。

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◆ 「Re(2):大乗仏教とテーラヴァーダ」 Herenowさん

> > ケン・ウイルバーなどはこの点について
> > 1.witness
> > 2.one taste
> > の二つにはっきり段階分けし、one tasteの方がレベルが高いとしています。

> 1と2の違いをかんたんに、説明してもらえますか。

 ウイルバーの成長論を簡単に述べるなら、アイデンティティの脱同一化と同一化(統合)という言葉がキーワードになるでしょう。
 例えば私達は自分の身体を客体として見て、自分の心(自我)に同一化しています。この段階では心と体が分裂しています。この自我から脱同一化して、自我と身体を統合することが次の段階です。
 同様に身体から脱同一化して、世界と同一化することが次の段階です。
 つまり、狭い自己からの離脱は広い自己との同一化と同義ということです。

 ただしウイルバーは最後の段階でこの二つを区別しています。
Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。
 最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」
 ただ、ウイルバーはこの段階を、自己と全自然界との間に分離がない自然神秘主義の段階と区別しています。「自然との一致体験と違い、単なる外なる粗い形との間でだけでなく、内なる微細な形すべてとの間でも体験される。」
 非二元派では、integration,統合がキーワードですが、テーラヴァーダで言及されないのは、目指しているものが違うからでしょうか。
 前者では、あらゆる顕現を心の本質(もしくは仏性、アートマン、ブラフマン、一者、空)の投影と見て統合することを重視しています。
 どちらも現象に対して一切思考による編集作業をやめるという点においては共通していますが、仏性やアートマンといった我を想定させる言葉で究極の状態を表現することを一切拒絶したのがテーラヴァーダの考え方かもしれません。中観派の帰謬論証派もこの点は徹底しており、究極の体験に対するいかなる仮定も排除します。余計な形而上学は要らない、ただあるのは依存して生起する無常のセンセーション、感覚経験だけであって、「私」とか「ブラフマン」とかいうのは妄想の産物に過ぎないというのが仏教の立場でしょうか。
 簡単にと言われながら長々書いてしまいました。後半は私の個人的見解であって責任は持てません。

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◆ 「「大乗仏教とテーラヴァーダ」をめぐる話題を拝見して」 rei

はじめまして

「大乗仏教とテーラヴァーダ」をめぐるやりとり、
興味深く拝見させて頂きました。

>> Witness、目撃者、元因の段階は、すべての顕現からの離脱を意味しています。しかしこの段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いているとしています。

>> 最終段階は、One Taste、心のレベル、非二元的領域、統一意識、といろいろと表現を変えていますが、この段階はすべての顕現と統合します。「目撃者の中で静かにくつろぐにつれて、この内なる目撃者であるという気持ちが完全に消え去り、そして目撃者は結局目撃されているあらゆるものだとわかる。形は空であり、空は形である。目撃者とすらも脱同一化し、すべての顕現と統合する。」

私には、〈超個的観察者〉の確立の後、その「観察者」が、一気に万物の側になだれ込み、崩れ込み、「分離なき、見ること」が起こる―そこでは、〈見るもの〉は〈見られるもの〉である―というケン・ウイルバーの立論自体は、なかなかいい線いってるのではないかと思えます。

もし、完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱―が確立されたならば「目撃者と目撃されるもの」との二元性は、完全に払拭されているはず。
なぜなら、その二元性、その分離感を作りだしているのは、他ならぬ、対象化(自覚)することができていない内面のうごめき―思考・感情・判断などの微細なうごめき―であるだろうからです。

つまり、vipassana・禅・クリシュナムルティなどが求めている「観察」とは、

完全な対象化・自覚(それが生起したことに―たとえ、それが、どんな微細な想念であれ―気づいていること)―サティ―と、全面的な(その観察対象との)融合、無分離性―サマーディ―との混ぜ合わさった特殊な「観察」である、ということなのでしょう。

禅ではこの特殊な観察状態を、「“そのもの”に“なり切ること”」などと表現しますね。
聞こえている音になりきり、感じた感覚になりきり、自分の思考、感情になりきり、なりきりしていく。それによって、あらゆる問題を破砕していく―それが禅の行き方ですね。

そのことを、「煩悩即菩提」などという独特な言葉で表現するところに、外部のひとの誤解を招く要因があるのではありましょうが….。

だとすると、

> しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いている・・・

というのは、実際には、微細なレベルでの「同一化」の「解除」―つまり、あらゆる内的/外的現象の自覚と対象化、離脱(捨)―はできていないのではないか? (つまり、完全な観察、全的な観察ではない。見落としがある。)
できてないがゆえに、「目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いて」しまうのではないか、と云うことになります。

参照→ 青野敬宗老師語録  Krishnamurti 分離なき観察

>> どちらも現象に対して一切思考による編集作業をやめるという点においては共通していますが・・・

「現象に対して、一切思考による編集作業をやめ」たとき、そこに見えるのは、一切行の「苦(ドゥッカ)」性である、とテーラヴァーダは明白に言明し、「苦でも楽でもない、苦楽を超えた、あるがままだ」と、大乗仏教は確約する―この明らかな不整合を、「‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないか」と言って済ますことはできないのではないか、というのが現在の時点での私の見解です。
これは「なかなかの難問です」、私にとっても。

> この点は、大乗仏教の内部でも論争のあるところなので、大乗仏教とテーラヴァーダ仏教との本質的な違いとはいえないでしょうね。
> この主張自体は、なんら反対すべきことは一切ありません。大乗仏教もこうした主張は、明確にしていると思います。

そう感じてしまう、批判になっていない批判って、よく聞きますよね。

> 分からないのは、一切の存在の本質を苦(ドゥッカ)とし、煩悩を厳しく否定する立場です。そして、大乗仏教が巧妙に煩悩を肯定しているとする批判です。

> サティとは、苦とか快とかという判断以前にありのままに気付きを入れて行くことではないのか、というのが私の素朴な疑問です。そして、煩悩のありのままに気付き受容するとき、煩悩への囚われから解放されていくのではないか。大乗仏教の中には、そういう考え方が在ると思います。それは、煩悩の肯定ではなく気付きと受容による、煩悩からの解放なのではないかと思うのですが。

> テーラヴァーダ仏教が、煩悩を否定と肯定というレベルで語るところがよくわかりません。生起するあるがままに気付きを入れるサティの考え方と、私の中でうまく整合しないのです。

この引っかかりは、よくわかります。

この疑問の解消は、偏に「行‐苦(サンカーラ・ドゥッカ)」―五蘊皆苦―の理解に懸かっていると思います。
そして、その理解が生じるか否かは、結局、(厳密な意味での)「ヴィパッサナーの実践」に懸かっていると思います。

そういう私自身、未だすっきりしないのですが。

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◆ Re: 「「大乗仏教とテーラヴァーダ」をめぐるメール、ありがとうございました。」  Noboruさん

メールありがとうございました。
興味深く拝見しました。

> 私には、〈超個的観察者〉の確立の後、その「観察者」が、一気に万物の側になだれ込み、崩れ込み、「分離なき、見ること」が起こる―そこでは、〈見るもの〉は〈見られるもの〉である―という、ケン・ウイルバーの立論自体は、なかなかいい線いってるのではないか、と思えます。
> もし、完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱―が確立されたならば「目撃者と目撃されるもの」との二元性は、完全に払拭されているはず。

「完璧なサティ―完璧な内/外現象の対象化・観察・離脱」ですか。
そうだとすると、私はまだサティということが全然分かっていないようです。
私には、対象化が同時に「あるがままの受容」と切り離せない状態で結びついているのが、サティだと感じられます。
多分、reiさんも、根本のところでは同じことをおっしゃっているような気がしますが。

> なぜなら、その二元性、その分離感を作りだしているのは、他ならぬ、対象化(自覚)することができていない内面のうごめき―思考・感情・判断などの微細なうごめき―であるだろうからです。

サティを上のような意味で捉えるなら、ここで述べておられることは、よくわかる気がします。

> つまり、vipassana・禅・クリシュナムルティなどが求めている「観察」とは、完全な対象化・自覚(それが生起したことに―たとえ、それが、どんな微細な想念であれ―気づいていること)―サティ―と、全面的な(その観察対象との)融合、無分離性―サマーディ―との混ぜ合わさった、特殊な「観察」である、ということなのでしょう。

うん、やはり同じことですね。わかるような気がします。

>禅ではこの特殊な観察状態を、「“そのもの”に“なり切ること”」などと表現しますね。聞こえている音になりきり、感じた感覚になりきり、自分の思考、感情になりきり、なりきりしていく。 それによって、あらゆる問題を破砕していく―それが禅の行き方ですね。

はい、これは慣れ親しんだ表現です。ヴィパッサナーも、根っこのところでは、同じことをしているという理解があります。

>だとすると、
>> しかし、この段階では、あらゆる主体への同一化を解除しているものの、未だ目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いている・・・

> というのは、実際には、微細なレベルでの「同一化」の「解除」―つまり、あらゆる内的/外的現象の自覚と対象化、離脱(捨)―はできていないのではないか? できていないがゆえに、「目撃者と目撃されるものという微妙な二元論が働いて」しまうのではないか、と云うことになります。

これも、何となくですが納得できます。

・・・・・

> 「現象に対して、一切思考による編集作業をやめ」たとき、そこに見えるのは、一切行の「苦(ドゥッカ)」性である、とテーラヴァーダは確言し、「苦でも楽でもない、苦楽を超えた、あるがままだ」と大乗仏教は主張する―この明らかな不整合を、「‥‥結局悟りの境地を言語化する際に違いが生じているだけなのではないか」と言って済ますことはできないのではないか、というのが現在の時点での私の見解です。

実は私も言語化の際の違い以上の差を感じています。

> > テーラヴァーダ仏教が、煩悩を否定と肯定というレベルで語るところがよくわかりません。生起するあるがままに気付きを入れるサティの考え方と、私の中でうまく整合しないのです。

> この引っかかりは、よくわかります。
> この疑問の解消は、偏に「行‐苦(サンカーラ・ドゥッカ)」―五蘊皆苦―の理解に懸かっていると思います。
> そして、その理解が生じるか否かは、結局、「ヴィパッサナーの実践」に懸かっていると思います。
> そういう私自身、未だすっきりしないのですが。

私自身、実践が深まることで二つの仏教の違いについての引っ掛かりが解消すると言う自信はまったくありません。というより、分かりたくないの方が正確ですが。
実践の方法論には、まったく共感していますので、続けて行きたいという強い気持ちはもっていますが。

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◆ Subject:「五蘊皆苦」と「五蘊皆空」―テーラヴァーダと禅仏教  rei

「作者のダイアリー」にて、「空と苦」拝見しました。

>ヴィパッサナー瞑想の修行法には非常に強い共鳴を感じる。しかしその背景をなすテーラヴァーダ仏教については、引っかかりがあってすんなり受け入れられない。

>一番の引っかかりは、やはり現象の一切を苦(ドゥッカ)として完全に否定することだ。

> ヴィパッサナー瞑想は、生滅変化する現象の在るがままに気付いて確認するサティの修行に励む。サティによって現象をあるがままに受け入れる訓練を続けると、やがて心が作り出すものと真に実在するものとの違いがはっきりと分かり、現象の真の姿が洞察される瞬間が来るという。
> また、心が描き出す妄想・幻影・現実の歪曲のたぐいがはっきり見えると、同時に自我(エゴ)が、元来は存在しない幻影であり錯覚であることが分かるという。
> 以上は納得できる。大乗仏教も基本的には同じことを言っていると思う。凡夫は言葉と思考を介することで「対立と区別の相」の下のこの世界を見る。しかしそれは世界の真実の相ではない。蜃気楼のごとき幻の世界を真実と見間違えているに過ぎない。言葉による区別・対立・分別を超えた世界のあり方が空性と呼ばれる。

> わからないのは、テーラヴァーダ仏教では、幻影を振り払ったときに洞察される世界が、苦と捉えられ、大乗仏教ではそれが、空と捉えられるとことだ。ヴィパッサナー瞑想もエゴや言葉による歪曲以前のありのままの世界を見るという点は、大乗仏教と同じであるはずなのに、なぜそれは、空ではなく快や幸福と対立する苦なのか。現象を苦と規定したとき、それはもう「対立と区別の相」での見方ではないのか。

まず、理解しておかなくてはならないことは、
テーラヴァーダで言う「苦」には、

・苦‐苦
・壊‐苦(変易苦)
・行‐苦

の三つのものがある、と云うことです。(これらは、単なる形式的な教理・分類ではないはずです。)

そして「五蘊皆苦」の根拠は、最終的には、この、存在の「行‐苦」性にあるのだと思われます。掲示板での議論は、この三つの「苦」が入り乱れ、少々混乱しているように見受けられます。Noboruさんの引っ掛かっておられる問題は、「行‐苦」のレベルでの問題であるはずです。

「生滅」「壊滅」を目の当りにしてに、怖れ、おののき、戦慄す、という「行‐苦」の体験は、vipassanaの修行行程のなかでは、(たいてい)預流道になる(つまり、悟る)直前に初めて起こることのようです。(で、あってると思うのですが、どうでしょう?)

ここで言われている「苦」が、常識的な意味での「ああ、苦しい~、苦痛だ~」と感じることであるとは思えません。

つまり、(今の時点での)私たちにとって「行‐苦」とは、「話としては分かるけど、受け入れられない」ものではなく、「話としてすら理解できていない、まったく見当のつかない」タイプの苦であるはずです。

前に、どこかで、誰かが「苦の理解こそが、仏教(原始仏教、ブッダの説いた教え)の全てである。苦を理解できたなら、解脱する」と言っているのを聞いたことがありますが、まさに、その通りなのでしょう。

「苦」の理解こそが重要なのでしょう。

まあ何にせよ、

「思考停止して、現象世界をあるがままに観察したとき(如実知見)、「一切行‐苦」を感ず、「一切行‐苦」を感じるが故に、「厭離」が生ず(この「厭離」と云う言葉、言葉どうりに読むなら、厭い離れるということですよね。決して、「淡々と」とか、「あるがままに」とか「受容する」とかではなく)、「厭離」が生じたが故に解脱する」と云うのは原始経典に繰り返し現われる表現であり、これ自体を、「これはブッダの言ったことではない! ブッダの死後、小乗仏教徒が捏造した話だ!」などというのは、あまりに無理があります。

この、「如実知見→「一切行‐苦」の洞察→厭離→解脱」を否定するならば、ブッダも、原始仏教も否定しなければならないでしょう。

それに対し、

「苦なる世界→如実知見→苦/楽の超越(無自性・空の洞察)→現在涅槃(当処即ち蓮華国)」というのが、大乗仏教一般の悟り観でしょうか。

>ヴィパッサナー瞑想は、「一切は苦」という思考・判断・規定をどうサティするのか。 とりあえず、ここが一番大きな疑問だ。

ヴィパッサナー瞑想の修行の過程で起こる「一切は苦」という理解は、「思考・判断・規定」に属するものなのでしょうか?
私にも、よく分かりません。

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昨今、巷では、ヴィッパサナー瞑想が広まりつつありますが、その問題点を総括

・サティをする側(自我)とサティ対象の主客の固定化。(瞑想は主客未分です)
・ラベリングにより、思考、雑念、怒り等を排除する時、自己嫌悪感という瞋(怒り)が自然発生してしまい、かえって、それらへの執着を深めてしまう点。(わずかの執着でもあれば、瞑想は出来ません)
・ラベリングそのものは、意志的、意図的なものであるのに対して、瞑想は、徹底的なこれらの排除によって成り立ちうるという矛盾点。

そもそも、仏陀の唱えたヴィッパサナー瞑想とは何だったのでしょうか。
深い禅定によって、己を空としたのち、観る。
その場合、観る者は、卑近な自己や自我では、決してなかったはずです。
それに対して、観る者を自己や自我で良いとした所に、昨今のヴィッパサナー瞑想の致命的過ちがあります。
それによって得られるのは、自己満足感か、自己優越感しかないでしょう。
自我も肥大化することはあれ、無くなることは無いでしょう。
その状態では、絶対に瞑想はできません。不可能です。

1.主体と客体のさらなる分離、自我の強化がされるような感覚があること
2.そもそもの土台が自我から始まっているので、気づきという意識のセンサーも、その自我から発せられるような感覚がある。

土台をぶっ壊さなければいけないのに、土台を強化する自己矛盾。

と、云う意見、など。

以下、、それに対する、私の見解を書きます。

「体験者」と「体験」との二元性が崩れ去り、分離なき《見ること》が起こるとき―
そのとき、その「体験」を、「体験者」がなくなって「体験」のみが残った(「体験」のみに“なった”)、と表現することも、分離した対象としての「体験(内容)」がなくなって、「体験者―真実の自己・本来の面目―」のみが残った(が、露わになった、顕現した)、と表現することも、
あるいは、「体験者」も「体験」も、何もかもがなくなった(限界線、境界線のないemptiness)、と表現することも可能だと思います。

自己がなくなって、無我になった―無我になって見れば、全てが自己だった、というのは禅宗の決まり文句―たとえば、こんな感じです。

「禅の真髄は自己を忘ずるにある。真修功成り、身心自然に脱落して、真箇自己を忘ずる時、天地皆自己ならざるなきを自覚して、手の舞い、足の踏むを知らずじゃ。
されども無始却来粘着縛着の自己を忘ずるの容易ならざることを、忘れることはできぬ。」
表詮(肯定的表現、生かす)と、遮詮(否定的表現、殺す)―そのどちらが使われているのかは、(禅の場合)文脈によって判断するしかないですね。

で、結局、問題は、「覚醒を体験したときには既にその体験者がいない」ということを、如何にしてこの身で実験し、検証(あるいは反証)するか、と云うことに尽きるでしょう。

カニカ・サマーディについて

質問1
> ヴィパッサナーの修行で言われる瞬間定(カニカ・サマーディ)とは?

まず、「何をもって“瞬間定を経験した”と言えるのか」というのが一つの問題です。

多分、「カニカ・サマーディ」と呼ばれるものは、以下の三つの要素の組み合わせによって成り立っているのでしょう。

1、「心一境性」という要素。
平たく言えば、主客未分、完全な対象との融合、脱落、見るものなくしての観察、見られる対象だけの独在、などといわれる意識状態。

それが起こっているかどうか?

「全面的な観察」においては、その瞬間のその対象だけが全宇宙であり、その生起の瞬間、宇宙開闢し、その消滅の瞬間、宇宙滅尽す、といった感じになる。

それを見ている“自分”と云う感覚も、「絶対的観照者、超個的観察者がいる」と云った感覚も、まったくない。

そのことが、一つ一つの内外の知覚対象―五感からの感覚知覚刺激、思考、イメ―ジ、感情、欲求―とのあいだで、むらなく、無差別的に起こっているかどうか?

2、スピード、というか動体視力のようなもの。

一秒に一個の対象と融合し脱落を起こしていても、カニカ・サマーディとは言えないでしょう。なぜなら、一秒間も持続する知覚対象は(我々人間の知覚システム上)存在しないはずだからです。

*このことに関しては、
「意識のなかの時間」E・ペッペル (岩波書店) を参照。
あと、
ユクスキュルの「生物から見た世界」の第三章「知覚時間」のなかにも少しでてきます。

今、読み直して見るのは面倒なので、大雑把な話でいきますが、ここで言われていることは、つまり、

人間にとってこれ以上分割できない“瞬間”というのがある。
それは、だいたい20分の1秒ぐらいの単位である、ということです。
(感覚器官によって少し違うのだそうですが….)

この「20分の1秒」という単位は、カニカ・サマーディの時間的限界が、多分、二〇分の一秒くらいの所にあるのではないか、という地橋先生の話にも符合しています。

で、言いたいことは、カニカ・サマーディをやったと言えるには、少なくとも一秒間に五つから十、あるいはそれ以上の数の対象との融合・離脱を繰り返していなければならない、ということです。

「一秒に一個」という場合、おそらくは観察眼がピンぼけで、多くの物を見逃してる(経験していることに気づいてない、無自覚的に経験している(しかし当然影響は受けているはず))か、
あるいは知覚経験の直後に考え事をしている(微妙な仕方でその経験を味わっているか、「やったー、ついに“それ”が起こったー」などと記憶と照合しつつ考えているか、
どちらにしても現実生起に眼を瞑っている)かのどちらかではないかと疑われます。
*こういう場面でこそ「ラベリング」という補助的技法(杖)の有効性が実感されるはずなのですが….。

3、持続時間
単純計算で、一秒間に10個のペースのサティが、10秒続けば100個、60秒続けば600個の「自性=法」の観察が行われることになります。

「「カニカ・サマーディ」が起こった、でもそれは0、2秒しか続かなかった」というのでは、それはカニカ・サマーディとは呼べないのかもしれません。

しかし、この第三の要素は、第一、第二の要素に比べたら重要ではないのかもしれません。

たとえ、それが三秒間のものであっても、
完全な心一境性(対象との融合)と、研ぎ澄まされた動体視力・観察眼(瞬間瞬間の離脱)をもっての“観”であれば、充分衝撃的であろう、と考えられます。

で、私に対する質問―
>マハシメソッドで瞬間定の状態になられたことはありますか?

この三つの条件を完璧に満たしたものを「瞬間定」と呼ぶとするならば、私は未だ、その経験はしておりません。
なんとなくうっすらと、「確かにこの話、嘘ではなさそうだなー」と感じている程度です。
まあ、せいぜい「瞬間定っぽい」状態をチョロっと経験したことがある、という程度でしょうか。

それは結局、カニカさんの現在の問題―
> 瞑想の状態は定力がいま一つで、サティの高速化が連続して起きない….というのと同じで、定力不足の問題です。

「ヴィパッサナーに一点集中力は必要ない、《拡散性の気づき》で充分だ」とは、よく云われる話ですが、本格的にやろうとすると、どこかで定力不足の問題に足を引っ張られますね。

そして、どうして定力がない(つかない)のか、ということを考えるなら、もっと根っこに潜む、より本質的な障害要因に思い至らなくてはならないのかもしれません。

> スリランカメソッドとかも習得なさっているんですか?

ええ、ひと通り習いはしましたけど、私には少し早かったです。
力不足を痛感して、もうこの二年くらいはやってません。
基本に戻ってマハーシを基礎からボチボチやり直しています。
ただ、私のこの言い方で分かるように、スリランカシステムは「メチャすげ―」ですよ。
その凄さ(全貌)が解かってくると唖然とします。

ただ、マハーシという基礎がしっかりしてないと、スリランカシステムをいくらやっても、結局“スリランカもどき”にしかならない、と感じている訳です。

最初に習ってから四年経過した今ごろになって、「いやー、マハーシってやっぱり凄いなー、やっぱりラベリングだなー」とか言っている現状です。

> 個人的にはヴィパサナー以上にクリシュナムルティ方式?だと天才的な素質が要求されると思うんですが・・・

ええ、これは私もそう思いますが….
しかし、スリランカシステムの実質・内容を知れば、ヴィパッサナーの印象も変わりますよ。

スリランカシステムは最終的に(クリシュナムルティの話とほとんど見分けがつかないような)無作為、無選択、無限定の絶対受動的観察―勿論、ラベリングも中心対象もなし、サティすらしない―といった所まで至ります。
そうなると、「ヴィパッサナー」と云うもの自体に対するイメージが変わってしまいます。

ただ違うのは、その“無技法”に至るまでに、技法を尽くしての、段階的な、体系だった基礎訓練が用意されているというところです。
(う~ん、まあ、この言い方、お前はクリシュナムルティが分かっちょらん、とか言われそうですけど….まあ、ホントそうです。自信ないです。)

しかし、まあ、私としては「技法を尽くした後、無技法に至る」というのの方が現実的、実現可能なものに感じられるのです…. 「人事を尽くして天命を待つ」みたいな。
まあ、天才的なひとにとっては、無用なことなんでしょうけども。

> 後は、無常、無我、苦か無常、無我、至福かってところですか。
> まあ、この辺は頭で考えてもしかたないですけどね。

このへんの話は、結局、例の、消滅智だ、壊滅智だ、という話を実際に経験してみない限り、何とも言えないこと。
おそらく、原始仏教の使用法での「無常、無我、苦」という言葉は、我々が普通に理解し使っているようなものとは全く異なった意味であろう。

その直接経験なしに、「一切皆苦論はおかしい、厭世的で歪んだモノの見方だ」などと言ってみたところで、仕方がない。

ヴィパッサナーは、結局、顕微鏡下の世界の話であり、
その顕微鏡覗いたことのない人間が何言っても仕方がない、と云う感じはあります。

眼の前にある紙を、肉眼で見ればつるつるだし、触ればすべすべだし。
でも、100倍率の顕微鏡で覗けば、でこぼこで穴だらけかもしれない。どっちが“あるがまま”の真実で、どっちが妄想かという問題ではないでしょう。
肉眼で見れば、つるつるに見えなきゃおかしいし、顕微鏡で覗けば、でこぼこの穴だらけに見えるのが当然。
そのような食い違いであるような気がします。

しかし、まあ、我々としては、判断保留して、言われた通りに、しかも批判的精神を働かせ、“不確実さ、わからなさ”に留まりつつ、修行を続けて行くしかないですね。

◆ 法と概念

事実とイメージ
ダンマとパンニャッティ
単一体と複合体

・存在論的原子と認識論的原子(最小単位)

知覚と知覚像(イメージ)
身体と身体像
思考と思考イメージ

◆ 6門と5蘊
入力チャンネルと認識の時系列でのプロセス 横と縦

触→受→想→行(思)→識

◆ 今の最小単位
satiが切れてない・続いているとは、どういう状態か?

1 拍動の単位 入門レベルの目標
2 4分の一秒の刻み カニカサマーディの始まり
3 10分の一から20分の一の限界→ヴィパッサナーレベル

トピック ◆ 生物学的一瞬 

◆ インテンションありの気づきとなしの気づき

身体制御ありとなしの違い

座と歩行 そして食事瞑想

◆ 中心対象の設定

絞りと開き 意識のスポットライトのたとえ

◆ ラベリングの様々な機能

ラベリング=概念を使って概念を超える道 (とげを使って棘を抜くの喩え)

3つの世界
1 身体(内部)感覚の世界 接触感・筋感覚・拍動・痛み、など 多→一へ
2 外界(知覚)の世界 見る・聞く 常にひとつのラベリング
3 意識(心)の世界 思考・メンタルイメージ・感情・欲求 一→多へ

最終的に「気づき」に一元化

行住坐臥の四威儀→動く・動かない(インテンション・身体制御の意思の有るなし)の二種類のみ

身受心法の四随念→ 身体から心への三世界論

・ミシン(ホッチキス)のたとえ

言語(概念)によって、言語(概念)を超える方法論

視覚

運動覚
色覚
光覚(明度の感覚)

触覚

圧覚
温覚
冷覚
痛覚
振動感覚

内耳― 前庭(平衡感覚)

筋感覚

関節の角度や、身体の位置

ラベリング作りのルール

1、かならず、過去形で作る
「上げる、下げる、感じる」→「上がった、下がった、感じた」

2、できるだけ短い言葉で作る(1~4音節。5音節は、他にどうしようもない場合以外避ける)
「見た、聞いた、感じた、音、耳、感覚、など」

3、 より客観性のある(巻き込まれてない)対象化された言葉で作る
「痛い、寒い、眠い、イラツク(イライラする)」→「痛み、寒さ、眠気、イライラ感」など

4、(能動性・インテンション・意志・意図を含まない含まない)受動的な言葉で作る
「離れる、触れる」より→、「離れた、触れた」など。
「上げる、下げる、伸ばす、掴む」→「上がった、下がった、伸びた、掴んだ、感じた」

5、響きのいい、スッキリした言葉で作る(できるだけ濁音は避ける)
「感じた、触れた、見た、聞いた」など

身識(身体感覚)の場合、迷ったら、全て「感じた」「感覚」で次へ進む。

意識(思考のチャンネル)の場合、「~と考えた(思った)」「考えた(思った)」「思考」で、「カッコ閉じ」する。
メンタルイメージ(心象)の場合、「イメージ」「映像」など。

欲求(インテンション)は、すべて「~したい」、あるいは「欲求」
例→「立ちたい」「伸ばしたい」「食べたい」「掻きたい」など。

宣言、断言
「戻ります」「感じる」「stay!」など。
中心対象に共石に戻すための言葉

ラベリングの言葉の短縮化

感覚、感じる→ か
耳、音→ に
眼、見た→ め
思考、考えた→ い(意)
イメージ→ え(映像)

認識論的・言語論的の違い

言語の機能(ナーガルジュナ、ソシュール)・認知科学的立場(味覚のレセプター、目の3つの色)

1 マントラ(念仏)的、心のコマの強制的埋込
2 知覚事実の事後確認
3 中心対象の指定・固定機能 意識に対する指示・命令(インテンション)機能
4 言語の要素抽出(ソート)の機能 対象の切り出し/際立たせ機能
5 言語による瞬間的な本質直感の機能(知恵が出るための訓練)

トピック ◆ 法と概念の識別をすると、楽しくない、楽しい?
2 実践編

・行住坐臥→ 動く、動かないの2種
・身受心法→1 身体内部感覚の世界 2 身体外部・外界知覚の世界 3 意識)思考・感情・欲求)の世界の3世界

◆ 3つの世界の、それぞれのラベリング

1 身体内部感覚→感覚 触れた(接触感) 感じた(それ以外)、あと、オノマトペが使える。痛み はじめに細分化、徐々に一元化に進む。

2 外界知覚、門ごとに一つ 視覚→見た、眼など 聴覚→聞いた・音、など 味、匂い→感じた 暑さ、冷たさ

3 意識→意 まず、思考、感情、イメージ。欲求(~したい)、苦・楽→欲望・嫌悪
徐々に細分化、アドリブへと進む。

◆ ラベリングのルール

「~が、~した」の文章にしない。結論部分のみ。自分で分かる部分は言葉にしない。

・最大4音節 できるだけ短く 一音節が最高 眼(め)、耳(に)、意(い)など 高速化に備えて

・基本過去形 例外の説明 膨らむ、へこむ、など

・インテンションが混ざらないように。受動的、人の体を観察してるような。
例 見てる。見たい、痛い、のびた、伸ばす。などはダメ。

・意味があっているか? 概念として適切か? より概念的でない言葉を選ぶ 例 進む、あげつる、噛む、など。

・濁音は使わない 脱けのいい音を選ぶ

・語尾の音を揃える ~た、など

* 適切なラベリングは、修行を容易にし、進歩を助けるが、不適切なラベリングは、気づかないところで修行を阻害する。

◆ 動かない瞑想の基本訓練

座る、あるいは横たわって、身体を固定・安定させて
拍動・心拍瞑想

1 合掌 胸の前で手を合わせて
2 手を少し開いて
3 手を膝におろして
4 片手ずつ
5 片手をパーツに分けて

◆ 動く瞑想の基本訓練

歩行

接触感→触れた 内部感覚→感じた(感覚・圧)

1 触れた足で1分割(触れた)
2 触れた足で2分割 (触れた、感じた)
3 浮いた(動く側の)足で1分割(触れた)
4 浮いた(動く側の)足で2分割(触れた→感じた)
5 両足を組み合わせて
6 更なる細分化
7 ボディワークを組みあわせて(触れた→ドローイン→感じた、など)

・歩行瞑想の際の姿勢 重要

◆ 総合・統合

食事・喫茶での瞑想訓練

◆ ボディワークのなかでの訓練瞑想

トピック ◆ ラベリングと中心対象 瞑想、内観、共にある。

……

◆ 具体的な技法

・拍動瞑想

・歩行瞑想

・食事瞑想

・クリアリング

問題の感覚に留まること

唯一なすべきことは、これまでやってきた、あらゆる気紛らわせ・時間つぶし・「何か」やること・時間を/頭を雑事で埋めること(読書、瞑想、外出、情報収集など)を止め、あらゆる苦しみ、うんざりさ、問題の感覚から逃げることを止め、そして、とにかく苦しくとも、できる限り何もせず、自分=問題の感覚に留まっていること。→

ヴィパッサナー瞑想とは何か?

「ヴィパッサナー」という言葉は、原始仏教の時代、古代インドで使われていたパーリ語の単語です。 Andersonの『PALI READER』によると、vipassana の vi とは prefix to verbs an … 続きを読む ヴィパッサナー瞑想とは何か?

「いまの事実」の持つパワー

「いま在る事実・現実」は、心理的な不安、不快な感情、怒り、恐れ、悲しみのことも有れば、身体的不調による、痛み、吐き気、だるさのことも有るが、それらは、それ自体が強烈な力(エネルギー・威力・潜勢力)を持っている。→

観察系と反応系の関係について

「臨死体験・気功・瞑想掲示板」より「武男さん」の発言。文章、多少いじってます。 私の視点では、今この瞬間と云うものは、捉える事ができないのです。 そして、今この瞬間が自分自身なのです。 よって、自分自身と云うものは、捉え … 続きを読む 観察系と反応系の関係について

今日の一言(気づき系) 私的抜粋

グリーンヒル瞑想研究所の「今日の一言バック・ナンバー」 からの私的抜粋です。 「眠気」とサティを入れても、全然消えない? では、もう少し分析的に、生理的現象と心理的現象とに仕分けて、観察してください。 ボーッとした感じや … 続きを読む 今日の一言(気づき系) 私的抜粋

気づきの言葉

■ 苦しみは何故、人生に必ずついてまわるのでしょうか? 恐れや不安、嫉妬、怒りなどを作り出す、思考(想念・考え)が原因でしょうか。 例えば、将来、ガンになって苦しんで死ぬのでは、と考え、恐れ、あるいは不安になる。 成功し … 続きを読む 気づきの言葉