永井均他編集『事典 哲学の木』

事典・哲学の木
一家に一冊、とまでは言えないかもしれないけれど、松岡正剛監修の『情報の歴史』と並ぶ私の常備本が『哲学の木』。無人島で独り暮らすことになったら、たぶんこの本を持っていくことになると思う。
この本は、哲学用語事典としては使えない。「概念」と「観念」がどう違うかを知りたいと思っても、あるいは最近気になっている「コンセプト〔concept〕」と「コンセプション〔conception〕」の違いを見極めようとしても、この事典では役に立たない。「現象」と「表象」の違いについてだったら、中島義道が担当した項目の中でドイツ語の語義に即して簡単な説明があるけれど、やっぱりそれだけのこと。
哲学は用語事典の中で起きているんじゃない、哲学は現場で起きているんだ。永井均が序文でそういった趣旨のことを書いている。《哲学の言葉は、哲学している現場からしか理解できない。(中略)哲学者は、なけなしの言葉を使って、これまで誰も言わなかったこと、言えなかったことを、なんとかして言おうとするからである。(中略)だから、哲学者のその努力の全体との共感関係なしに、そこでなされている哲学そのものをこの場でもう一度再生しようとする意志なしに、使われている言葉の意味だけを取り出して説明するなどという芸当は、誰にもできないのである。言葉の意味は、哲学的思索の進展とともに、それと同時に、つくりかえられ、つくりあげられていくしかないからだ。》
それにしても、他の編集委員が面倒くさがったので書いたというこの序文は感動的なまでに素晴らしい出来で、いま引用した箇所以外でも、次のような文章が出てくる。
《そして、なんど驚嘆させられたことだろう。私がこれこそが哲学的問題だと勝手に信じ込んでしまった問題とは何の関係もないような問題、たとえばヨーロッパ中世哲学における神の存在証明の問題などという、最初に学んだときにはただただ馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった問題が、じつは自分が考えている問題とあまりにも緊密に関係していることに、ある日、豁然と気づいたときの驚き。》 本人も恐縮しているが、事典の序文にこうした「個人的なこと」を書きつける自在さがこの本(読む事典)の真骨頂で、総勢196人の執筆陣による全401項目にこの精神(事典を現場として自分の哲学をすること)は貫かれているはずだ(まだ全編読破には遠く及ばないので、推測するしかない)。
でも、先の文章に続けて、ちゃんと序文としての結構をつけているのはさすがだ。《さて、私がこの『事典・哲学の木』に望んだのは、このような──自分自身の哲学的思索とこれまでに哲学であるとされてきた伝統との──媒介作業である。》
毎日新聞(2002年3月31日)のインタビュー記事に次のように書いてある。《「哲学の木」はデカルトが哲学を一本の木にたとえたことに由来する。編集の過程で項目を系統樹のように表現できないか、模索したという。/「空間上に表現できない複雑なものになることが分かって断念しました。ただ、この本をめくっていくと、たいていの人は関心のある項目と出合うことができるでしょう。そこから、内容のつながりをいもづる式に読んでいって、読者が独自の新しい木を作っていってほしいと願っているのです」》 この本は、未完の「哲学の木」の2002年現在での一断面でしかない。インターネットを使えば、不断に増殖する「哲学の木」が立ち上がるだろう。