原田雪渓師のお話

私と同じく井上義衍老師に参じられた青野敬宗老師が遷化をせられて、いろいろ当時のことを考えさせられます。
たまたま蒼龍窟という所で、私共は、六、七人で集まって修行をさせていただいておりました。
ある日、敬宗師といっしょにお茶を飲んでおった。
その時に敬宗師が
「今、仏道はどこにあるのかね、雪渓さん」と、こう尋ねられた。
そこで、「仏道はどこにあるのか」と尋ねられた私は、彼の言葉をもう一度自分で、「仏道はどこにあるのか」と、反芻をしてみた。
その反芻が、自己の全体になった―
今まで求めていたもの、探しておったものがきれいに、確かになくなった。
即ち、「仏道という幻影がなくなった」ということです。
そういう事実があります。
それが私の今の様子です。
本当に一言半句の下に換骨脱体をするということは必ずあるということです。
かなり以前から、「今のほかに求むべきものは何もないんだ」ということは、きちっと信決定をしておった。
今のほかに絶対にない。
もし今のほかに自分の求めるものがあったならぱ、どんなに努力をしても、師匠の言うことをそのまま受け取ってみたとしても、今の外を求めることになると、それは誤りである。
しかし、このもの以外にない。
薪を運ぶ、水を運ぶ、草を取る、読経をする、これ以外にないっていうことは、理として理解できる。
ところが、「ない、ない」という「ないもの」が残るんですね。
「ない」ものというのは、「ある」ということと同じことなんです。
自分の考えの中ですから、「ある」と言おうと「ない」と言おうと同じことなんです。
言葉というのはそれほど微妙に人の考えを左右するものなんです。
畢竟、なんだかんだと理屈を言い、いろんなことを聞いても、結局これ以外ないじゃないか、っていうようなことで、自分自身を自分で納得をさせておるから、不自由じゃないですか。
そういう日が続いておったように思います。
本当に困り切っておったという様子でしょうか。
とにかく「仏道はどこにあるか」ということを尋ねられて、自分でそれを探しておる、探しているその事実が仏道そのものであるから、求めることがなくなった。
本当にそういう事実がある。
ですから、あの時に尋ねられなかったならぱ、どうだったろうかなと、今、思い出して話している訳です。