これは、どこで見つけた文章なのか、いま検索してみても分からないのですが、非常に良い文章だと思いますので紹介してみます。
昨日から自分のパソコン内のファイルの整理をしており、お蔵出しの文章が続きます。
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祈りには果てしない力がある。
言葉に力があるように。
言葉に力があるのは何故か。
それはそこに人の強い思いや思念が宿るから。
その強い思いや思念に力があるのだ。
それ故、たとえ一言であろうとも、
人を殺すことができ、人を救うこともでき、己を苦しめることもでき、己を癒すこともできる。
そうして強い思い・思念のこもった言葉は、ひとたび発せられるやいなや、力を有することになる。
その言葉を受ける取る者は、その言葉を通して、そこに宿る相手の強い思い・思念を知り、その強い思い・思念が生み出す力によって衝撃を受ける。
すべての言葉が力を持つとは限らない。
意図的な言葉であれ、ふとした言葉であれ、そこにこめられた強い思いや思念が、その言葉を発する人の奥底にある「本気」であった場合、そして受ける側がその「本気」を感じた取った時、受ける人は、その言葉によって衝撃を受ける。
その衝撃が、良い衝撃か悪い衝撃かは、込められた思いによって様々だ。
救われることもあれば、殺されることもある。
いずれにせよ、このようなことが起こるのは、人の強い思いが力をもち、それが言葉に宿っているからだ。
祈りはどうか。
いつも私は言う。
苦しんでいる人に言う。
祈ってくださいと。
何故か。
それは、人が特定の信仰を持つ持たないは別にして、誰もが「祈り」を人間の本性として生まれながらにして持っていると感じるからだ。
祈りとは「強く思う」ということに他ならない。
否、祈りにはそれに加え、生命を生命たらしめる働き、すなわちたましい・御霊が込められるのであるから、「強く思う」以上の力を持つことになる。
古人はこれを言霊とよんだ。
そのような果てしない力をもつ祈りが、人間を生かしめる神へと注がれたなら、一体どういうことが起こるのか。
それは、己の力は無論のこと、人間の力では、如何ともしがたく、どうにも動かしようのない、そういった苦難な状況や現実でさえ、その力によって変化するのだ。
それは天地自然の四季の移り変わりごとく、ゆっくりと、次第に、しかし着実に、そして最初は気づきにくいことや場合でも、その変化はふと振り返ってみると歴然なのだ。
はっきりと目に見えて好転するのだ。
わからぬ人にはわかるまい。この宇宙の法則が。天地の道理が。
金光教祖は残された。
思う念力岩をもとおすというが、信心する者が一心を出して願えば、どんなことでもかなえてくださる、と。
それは紛れもない真実だ。経験的にも私は断言できる。
だから私は言う。苦しんでいる人に言う。何度でも言い続ける。
祈ってください。自分の助かりを。
私も祈ります。あなたの助かりを。と。
私は知っている。
誰に何と言われようとも構わない。
私は知っているのだ。
人間が真一心に祈ったならば、どんな苦難や困難であろうとも、必ずやいつの日か貫き砕くことができるのだと。
必ず乗り越ることができるのだと。
誰が何というと、それを私は知っている。