森信三 『一日一語』を読む 2月

 二月一日
「人生二度なし」―この根本認識に徹するところ、そこにはじめて叡智は脚下の現実を照らしそめると言ってよい。
 二月二日
世の中はすべて「受け持ち」なりと知るべし。
「受け持ち」とは「分(ぶん)」の言にして、これ悟りの一内容というて可ならん。
 二月三日
畏友と呼びうる友をもつことは、人生の至楽の一つといってよい。
 二月四日
生身の師をもつことが、求道の真の出発点。
 二月五日
苦しみや悲しみの多い人が、自分は神に愛されていると分かった時、すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい。
 二月六日
自分に対して、心から理解し、分かってくれる人が数人あれば、一応この世の至楽というに値しよう。
 二月七日
金の苦労によって人間は鍛えられる。
 二月八日
人間は腰骨を立てることによって自己分裂を防ぎうる。
 二月九日
悟りとは、他を羨まぬ心的境地ともいえよう。
 二月十日
名・利というものは如何に虚しいものか。
しかも人間は、この肉の体の存するかぎり、その完全な根切りは不可能といってよい。
 二月十四日
一切の人間関係の内、夫婦ほど、たがいに我慢の必要な間柄はないと云ってよい。
 二月十五日
信とは、いかに苦しい境遇でも、これで己れの業が果たせるゆえんだと、甘受できる心的態度をいう。
 二月十六日
観念だけでは、心と躰(からだ)の真の統一は不可能である。
されば、身・心の統一は、肉体に座を持つことによって初めて可能である。
 二月十八日
人間として最も意義深い生活は、各自がそれぞれ分に応じて報恩と奉仕の生活に入ることによって開かれる。
 二月二十日
偉れた先賢に学ぶということは、結局それらのひとびとの精神を、たとえ極微の一端なりともわが身に体して、日々の実践に生かすことです。
 二月二十一日
師の偉さが分かり出すのは
(一)距離的に隔絶していて、年に一回くらいしか逢えない場合
(二)さらにその生身を相見るに由なくなった場合であろう。
 二月二十二日
一人の卓れた思想家を真に読み抜く事によって、一個の見識はできるものなり。
同時に、真にその人を選ばば、事すでに半ばは成りしというも可ならん。
 二月二十三日
人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬も早過ぎず、一瞬遅すぎない時に―。
 二月二十四日
縁は求めざるには生ぜず。
内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついには縁を生ずるに到らずと知るべし。
二月二十五日
書物に書かれた真理を平面的とすれば、「師」を通して学びえた真理は立体的である。
 二月二十六日
満身に総身に、縦横無尽に受けた人生の切り創を通してつかまれた真理でなければ、真の力とはなり難い。