ルパート・スパイラのインタビュー ≪ resonanz360から
私たちの見かけ上の客観的な経験は、思考と感覚と知覚とで構成されています。それはマインド、身体、世界です。
気づき(Awareness)が考え「として現れる」とき、それは思考になったように見えます。気づきが感じるということ「として現れる」とき、それは身体になったように見えます。そして気づきが知覚ということ「として現れる」とき、それは物体、他者、世界になったように見えます。
考えがおさまったとき、その見かけ上の客観的な部分(思考の部分)は消えますが、その実体である気づきは残ります。その時を超えた瞬間(マインドがそこにないために時を超越しています)、気づきはそれ自身をありのままに味わい、それは思考という見かけ上の客観性を仲介していません。この経験は理解(Understanding)として知られています。
感じることが止まったとき、その見かけ上の客観的な部分(感覚または身体の部分)は消え去り、その実体である気づきが残り、その気づきはそれ自身を愛(Love)または幸福(Happiness)として知ります。
そして知覚することが止まったとき、物体、他者、世界は消え、それらの実体である気づきは残り、それはありのままに自身を知り、物体の見かけに曇らされることはありません。これが美(Beauty)として知られる経験です。
言い換えると、理解、愛、幸福、美は、ひとつの同じ経験、気づきの現前、自己の存在(Being)の認識につけられた異なる名前です。
理解と愛を通る道(ジニャーナとバクティの道)についてはこれまでにも沢山書かれていますが、知覚を通じての道はあまり触れられることがありません。知覚の道または美の方法が芸術家の道です。
それは、すべての知覚の実体が気づきで作られていることが明確になる道であり、それを通してそのことが表現される道です。
すべての見かけの物体は気づきからつくられているのですが、相対的なレベルでは、このことを明らかにすることが物体の機能であるとは言えません。たとえば、やかんの目的はお湯を沸かすことであり、経験の本質を明らかにすることではありません。ただ、さまざまな物体の中に一つのカテゴリーがあり、そのカテゴリーのものは経験の本質を明らかにすることを特に意図して作られたものであり、そうしたものを私たちは芸術作品と呼びます。
芸術作品の機能は、経験の本質を指し示すだけでなく、そうした性質を実際に明らかにすることです。セザンヌが言ったように、その機能は「私たちに永遠(Eternity)を経験させる」ことです。