「分離した個人」と「苦しみ」

Q. 私は、「気づきとして生きる」とか「あるがままにゆだねる」とか「自分が気づきであるということを知る」といった考えと格闘してきました。私はこれらのことに、私自身の胸の激しい痛みとの関連において取り組もうと長い時間をかけて努力してきました。そして当然ですが「努力する」ということは行為することを意味していて、それは何らかの行為をする分離した個人というものを意味します。そしてその分離した存在はそもそも存在していません。私は立ち往生してしまっていることに気づきました。「私」がどんなことをしても、痛みと憂鬱の経験は続き、ものすごく苦しんでいます。これは明け渡しと受容ということが起こるかどうかの恩寵次第だというように見えます。どのような「努力」もより悪影響を及ぼすように感じます。それなのに努力は続きます。
A. もし私たちが苦しんでいるとするならば、見かけ上の「私」ははっきり存在しています。この見かけ上の「私」が苦しみの原因です。
しかし、もしこの見かけ上の「私」として、「努力は行為を意味し、それは分離した個人が何かをしていることを意味する。そして分離した個人はそもそも存在しない」といった考えを私たち自身に重ね合わせるならば、探究されるべき苦しみというものに対して行える一つのことを自身から奪うことになります。
他の言葉で言えば、もし「分離した個人は存在しない」ということを知っていれば、私たちは苦しんでいないでしょう。苦しむと同時に「分離した個人は存在しない」と理解していると主張することはできません。この二つの立場は両立しません。
この場合、「分離した個人は存在しない」という観念は単なる観念であり、不二一元性というものが私たちが抱くただの新しい宗教になってしまっています。
ルパート・スパイラ « resonanz360