日常感覚は死の隠蔽の上にはたらく。
マンホールの上を歩く足は足下に空洞のあるのを忘れている。知っていてもそのために立ち竦むことはない。
日常感覚も死の空洞の上に鉄板を張って、落ち込むことのないものとして生きている。
人間が笑うことができるのは、死を忘れているからだ。
死の際まで死を思わないで生きることは人間の生き方のもっとも健全なものにちがいない。
たいていの人はそのように生きており、尿路の結石に苦しんだ十六世紀フランスのモラリストも、たしかそういう生き方を推奨していたと記憶する。
しかし、結石の痛みが我慢ならぬほど強くなれば、人はいやでも意志のそとにある身体というものに思い至る。
また、その痛みが生命の不安を誘い出せば、いつまでも死をよけて通ることもできなくなる。
そしてそのとき、人は、死とは身体の消滅であるというわかりきった事実の前に駭然とする。
一人の人間にとって、彼自身の死だけが唯一正真の死だが、人はいつか、目隠しを解かれて、そういう自分の死と対面しなければならない。
『この世、この生』 上田三四二