森 信三 『一日一語』 7月

 七月一日
世界史は表から見れば「神曲」の展開―
そして之を裏がえせば、人類の「業」の無限流転といえよう。
されば之に対して何人が、絶対的正邪善悪をいう資格があろう。
 七月二日
この地上には、一切偶然というべきものはない。
外側から見れば偶然と見えるものも、
ひと度その内面にたち入って見れば、ことごとく絶対必然ということが分かる。
 七月三日
いかに痛苦な人生であろうとも、「生」を与えられたということほど大なる恩恵はこの地上にはない。
そしてこの点をハッキリと知らすのが、真の宗教というものであろう。
 七月四日
人はその一心だに決定すれば、如何なる環境に置かれようとも、何時かは必ず、道が開けてくるものである。
 七月五日
弱きと悪と愚かさとは、互に関連している。
けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である。
また智慧の透徹していない人間は結局は弱い。
 七月六日
人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を、生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。
 七月七日
自己の力を過信する者は、自らの力の限界を知らぬ。
そして力の限界が見えないとは、端的には、自己の死後が見えぬということでもあろう。
 七月八日
かにかくにひと世(よ)つらぬき生きて来し そのいや果てぞいのち賭けなむ
 七月九日
道元の高さにも到り得ず、親鸞の深さにも到り得ぬ身には、道元のように「仏になれ」とも言わず、また親鸞のように「地獄一定の身」ともいわず、たゞ「人間に生まれた以上は人らしき人になれよ」と教えられた葛城の慈雲尊者の、まどかな大慈悲心の前に、心から頭が下がるのです。
 七月十日
足もとの紙クズ一つ拾えぬ程度の人間に何ができよう。
 七月十一日
畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられものである。
もし見つからぬとしたら、それはその人の人生の生き方が、まだ生温かくて傲慢な証拠という他あるまい。
 七月十二日
肉体的な距離が近すぎると、真の偉大さが分かりにくい。
それ故、その人の真の偉さがわかるには、ある程度の距離と期間を置いて接するがよい。
 七月十三日
なぜ私は石が好きかというと
一、第一には何時までたっても倦あきがこない。
二、また石は、盆栽や小鳥などのように一切世話や手入れの必要がない。
三、その上ブームになるまでは、石には金銭的な値段がつかなかったので、
私のような横着者には最上の趣味でした。
 七月十四日
自分の最も尊敬している偉人の伝記は、精しく調べていて、自在に実例が出るようでなければ真の力とはなりにくい。
 七月十五日
肉体的苦痛や精神的苦悩は、なるべく人に洩らさぬこと―。
人に病苦や不幸を洩らして慰めてもらおうという根性は、甘くて女々しいことを知らねばならぬ。
 七月十六日
手に入れし鴨川石を厳(きび)しけき 時世(ときよ)なれどもわが愛(め)でてをり
遠山をとほく眺むる姿なすこれの石かや愛(め)でて飽(あか)ぬかも
 七月十七日
「流水不争先」―現世的な栄進の道を、アクセク生きてきた人が、あげくの果てに開眼せられた一境地といってよかろう。
 七月十八日
公生涯にあっては、出所・進退の時機を誤らぬことが何よりも肝要。
だが、相当な人物でも、とかく誤りがちである。
これ人間は自分の顔が見えぬように、自分のことは分からぬからである。
 七月十九日
人間は退職して初めて肩書きの有難さがわかる。
だが、この点を卒直に言う人はほとんどない。
それというのも、それが言えるということは、
すでに肩書を越えた世界に生きていなければ出来ぬことだからである。
 七月二十日
言葉の響きは偉大である。
一語一音の差に天地を分かつほどの相違がある。
それゆえ真に言葉の味わいに徹するのは、そのままいのちに徹するの言いといってよい。
 七月二十一日
すべて物事は、リズムを感得することが大切である。
リズムは、根本的には宇宙生命に根ざすものゆえ、
リズムが分かりかけてはじめて事物の真相も解り出すわけである。
なかんずく書物のリズムの如きは、著者の生命の最端的といってよい。
 七月二十二日
批評眼は大いに持つべし。されど批評的態度は厳に慎しむべし。
 七月二十三日
創作家が評論をするのは、チューブに穴をあけるようなもので、それだけ創作への迫力が減殺される。随って真の文豪は、評論は書かずに自己の作品で示している。
 七月二十四日
わたしは文章による論争というものはしたことがない。
それというのも、論争は第三者には面白くても、当事者双方は、それによってお互いに傷つけ合うだけだからである。
 七月二十五日
善悪・優劣・美醜などは、すべて相対的で、何も絶対的なものではない。
何となれば、いずれも「比較」によって生まれるものであり、随って尺度のいかんによっては、逆にもなりかねないからである。
 七月二十六日
心の通う人とのいのちの呼応こそ、この世における真の浄福であり、人間にとって真の生甲斐といってよかろう。
 七月二十七日
精薄児や身障児をもつ親は、悲観の極、必ず一度はこの子供と共に身を滅ぼしたいとの念に駆られるらしいが、しかもその果てには必ず、このお蔭で人間としての眼を開かせてもらえたという自覚に到るようである。
 七月二十八日
ある時
悲しみの極みといふもなほ足りぬ いのちの果てにみほとけに逢ふ
 七月二十九日
「救い」とは「自分のような者でも、尚ここにこの世の生が許されている」―という謝念でもあろうか。
そしてその見捨てない最後の絶対無限な力に対して、人びとはこれを神と呼び仏と名づける。
 七月三十日
人はこの世の虚しさに目覚めねばならぬが、しかしそれだけではまだ足りない。
人生の虚しさを踏まえながら、各自応分の「奉仕」に生きてこそ、人生の真の味わいは分かり初める。
 七月三十一日
たそがれて人影もなき池の辺に野茨の花咲き盛りをり
白じらと夕べ仄(ほの)かに池の辺に咲く野茨を愛(かな)しみて見つ