『自己喪失の体験』 バーナデット・ロバーツ

「自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなって、『それ』だけが残るのです。それは時に非常に強烈にもなりますが、何か異常なものではなく、自然で平明なので、どこを見てもあるという意味でむしろ通常なのものなのです。」
「旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。」

悪魔の証明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
モノ・行為における存在の有無をめぐって、「ない」ことを証明することは非常に困難である。これを悪魔の証明(あくまのしょうめい、羅: Probatio diabolica)という。もともと、西洋中世のカノン法用語らしい。
「有ることの証明」は、証拠を提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「無いことの証明」は調査範囲が限定されたケースを除き、立証は事実上不可能である。なぜならば、この世の全ての可能性、或いは森羅万象、を完全に調査しなければならないからである。
ゆえに、公平の見地から立証責任は「ある」と主張する肯定側が負うことになっている。証明できなければ無いものと見なされる。法学では「推定無罪の原則」がそれに当たる。
もしそうでなければ、例えば「お前は魔女だ」「お前は殺人犯だ」「この世にドラえもんは実在する」などのように、どんなに無茶苦茶な主張でも主張者がそれを好き勝手に言いつのるだけで、否定する側が「無いこと」を証明しなければならないという不公平な重荷を背負うからである。
しかし、現実の論争の場では、必ずしもこのことが了解されているわけではない。

雨乞い

アフリカのある部族が雨乞いをすると、必ず雨が降る。
彼らは特別な力を持っているわけではない。
雨が降るまで雨乞いをしつづけるのだ。

匿名の後ろに身を潜めたとき… 

匿名の後ろに身を潜めたとき、人間の徳性は大きく落ち込むことを人間知として心得ているからである。
残念なことだが、闇夜にまぎれて投石する卑劣さは人間だれしも多少は持ち合わせている。
だからこそ、自分の節度をきちんと維持するためには実名で通す必要があるのだ。
私だって匿名に隠れれば、70パーセントOFFの情けない卑劣な人間に落ち込むことは保証できる。
匿名にしてなおかつ節度をきちんと維持できる人も確実に存在するし、そうした人間的に立派な人々には最敬礼したくなる。

渡辺和子さんの言葉

人は誰でも十字架と呼ぶものをいただいているものです。
いやな人、いやな仕事、苦しい人間関係、病気、自分の性格等。
それから逃げないで、それが存在することから目をそむけないで、その十字架を取り上げ、担って行くこと。
自我、プライド、怠け心といった「自分」を捨てて、ひたすら、その十字架を担って行くこと。
安楽な道を求めるよりも、強い人となることを求めしめたまえ。
自分にふさわしい仕事よりも、与えられた仕事を果たすに必要な力を求めしたまえ。
頭で許していても、心ではなかなか許せない時があるのだ。
そして私は、人間は神様と同じように許さなくてもいいと思ってる。
つまり心底から許せない苦しみ、もどかしさがあってもよい。
いやむしろ、そういう自分の弱さを受け入れること自体が「許し」の一部分を構成してるように思えるのだ。
こういうこだわりと私たちは一生の間、ともに過ごしていかねばならないのではないか。

五つの自戒

1 つらいことが多いのは感謝を知らないからだ
2 苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ
3 悲しいことが多いのは自分のことしかわからないからだ
4 心配することが多いのは今を懸命に生きていないからだ
5 行きづまりが多いのは自分が裸になれないからだ