理学療法士は、
1 ”人”を診る
2 ”疾患”を診る
3 ”症状”を診る
4 ”変化”を診る
5 ”生活”を診る
6 ”人生”を診る
仕事ではないかと思う。
投稿者: 霊基
判断は常に盲目
人は、自分が信じている対象に関しては、その信仰の程度が深ければ深いほど、疑念を否定する方向に、事態を解釈しがちである。その結果、ますます対象に対する信仰心を強めてしまう。自分が深く信じているものを否定することが怖いのだ。それは、極めて人間的な感情の一つである。
私は、自分自身がものが分かる。ものが見える(ものを(人を)見る眼がある)という人を、自分自身を含めて信じない。
錯覚を克服するのに難しい点は、何より自身がその中にいることに気が付かないことだと思います。他の方のカキコを見て、自身の内に様々な反応が起こるのは、自身の錯覚をその人に投影して見てしまうからではないでしょうか? おそらくこの状態から真に自由な方は私を含めて一人もおられないと思います。他人からの指摘や自身の気付きによってその錯覚にはっきり気付くのは、何度体験しても嫌なものです。そして錯覚全体を認識するのに時間が必要かもしれません。あるいは全く認識しないかです。
良寛禅師 自戒の言葉
言葉の多き。
口のはやき。
あわただしくものいう。
ものいいのくどき。
おれがこうした、こうした。
人のもののいいきらぬうちにものいう。
わがことを強いて言いきかさんとする。
人の話の邪魔をする。
酒に酔いて理をいう。
あやまちを飾る。
ひきごと(引用)の多き。
好んで唐言葉をつかう。
田舎者の江戸言葉。
学者くさき話。
風雅くさき話。
悟りくさき話。
茶人くさき話。
たやすく約束する。
人にものくれぬ先に何々やろう。
くれて後、そのことを人に語る。
返らぬことをくどくど口説く。
推し量りのことを真事になしていう。
己が氏素姓の高きを人に語る。
ものの講釈したがる。
おかしくなきことを笑う。
子供をたらしすかしてなぐさむ。
憎き心をもって人を叱る
人生という映画から抜け出す 『ワン・テイスト』上巻 P95~
この鏡のような心という自覚〈あるいは、不断の意識〉が強力に育まれていくと、粗大な目覚めている状態は次第に、あなたを圧倒したり、あなたを揺るがしたり、通り過ぎる感覚が唯一のリアリティであるとあなたに信じさせる力を失ってくという意味で、「夢のように」なっていく。
人生は長大な一編の映画のように見え始め、あなたは映画を見る不動の〈観照者〉になる。
幸せが生起し、あなたはそれを観照する。喜びが生起し、あなたはそれを観照する。
苦しみが生起し、あなたはそれを観照する。
すべての場面において、あなたは表面を通り過ぎるばか騒ぎや激しさという荒波に巻き込まれることなく、〈観照者〉になる。
台風の中心では、あなたは安全である。あなたに深い内的な平和が出現し始める。
あなたはもはや同じような説得力を持つ混乱を捏造することができなくなる。
しかしそれは、あなたが欲望、傷つき、苦しみ、喜び、幸せ、悲しみを感じなくなることを意味するわけではない。
あなたは今まで通りそれらすべてを感じることができる。
あなたはそれらに圧倒されなくなるのだ。
繰り返すが、それは映画を見るようなものである。
ときにスクリーンで起こっている出来事にすっかり引き込まれ、それがただの映画だということを忘れることがあるかもしれない。
スリラーを見ているとき、実際に怖くなってしまうことがあるだろう。
そのとき友人が身体を寄せ、「おい。ちゃんとしろよ。ただの映画だよ。本当じゃないんだ!」と言う。
すると、あなたはそこから抜け出すことができる。
悟りとは、人生という映画から抜け出すことである。
目覚めるためには、それを引き離さなければならない。
あなたは〈観照者〉として、これまでも、今も、映画を見つめている。
しかし、人生を深刻に捉えてしまうとき―映画を本当の出来事と考えてしまうとき―、自分が純粋かつ自由な〈観照者〉であることを〈忘却〉し、小さな自己―自我―と同一化するようになる。
あたかも自分が実際に見ている映画の一部であるかのように、あなたはスクリーン上の誰かと同一化する。
それゆえ、あなたは怖がったり、涙をこぼしたり、一緒になって苦しんだりするのである。
瞑想を実践すれば、あなたは自分の座席でくつろぎ始め、人生という映画を、判断しようとすることなく、回避しようとすることなく、把握しようとすることなく、押し進めようとすることなく、そして引き戻そうとすることなく、ただ見つめることができるようになる。
あなたはそれをただ〈観照〉するのだ。
鏡のような心になることで、あなたは単純な、明瞭な、自発的な、努力の必要のない、常に存在する意識の中で休息することができる。
グルジェフの言葉
生活における知識の道と存在の道の乖離、また、その乖離の部分的には原因であり、結果でもある理解の欠如は、一つは人の話している言語に由来する。
この言語は、過った概念や分類、過った連想でいっぱいだ。
そして重要なことは、普通の思考法の本質的な特性、つまりその曖昧さと不適切さの為に、個々の語は、話し手が好き勝手に出す話題と、その時に彼の中で働いている連想の複雑さに従って、何千という違った意味を持ちうるということだ。
自分達の言葉がどれほど主観的であるか、つまり、同じ語を使う時でも一人一人がいかに違うことを言っているかを人々ははっきりと認識していないのだ。
彼らは、他の人の言葉をただ曖昧に理解するかもしくは全く理解せず、また、自分には未知の言葉を話しているなどとは考えもせず、それぞれ自分勝手な言葉を話しているということにも気づいていない。
彼らは、自分達は同じ言語を話しており、互いに理解しあっているという強い確信、あるいは信念を持っている。
実際にはこの確信には何の根拠もない。
彼らの話している言語は、実際の生活の中でだけなら何とか使い物になる。
つまり、実務的な性質の情報であれば彼らは互いに意思疎通ができるのだが、少しばかり複雑な領域に踏み込んだとたんに道を失い、気づかない内に互いに理解することをやめてしまうのだ。
彼らは常に、もしくは殆どの場合、自分達は理解しあっている、少なくともちょっと頑張れば理解し合えるという幻想を抱いている。
あるいは読んだ本の著者を理解したと空想し、また他の人々も理解しただろうと思う。
これも彼らが自分で生み出した幻想の一つに過ぎない。
彼らはその幻想の真只中に生きているのだ。
本当は誰一人、他人を理解してはいない。
二人の人間が、共に強く確信して同じことを言っているのに、ただ言葉遣いだけが違う場合とか、二人とも全く同じことを考えているなどとは夢にも思わず、果てしなく議論する場合もありうる。
かと思えば逆に、二人は実際は全く別の事を言っていて、ほんのこれっぽっちも相手のいっていることを理解していないのに、同じ言葉を使うのでてっきり同意見で、互いに理解しあえたと思い込むこともある。
話の中によく出てくる簡単な単語をいくつか取り上げ、手間を惜しまずにそれらに与えられている意味を分析してみればすぐに、人は誰でも一瞬ごとに、他の人は決して与えないばかりか想像さえできないような特殊な意味を、個々の語に与えていることに気づくだろう。
ちょっと、いい話…
4 名無しさん@_@ 03/04/14 12:24 ID:OAeRdvIA sage
待って、>>1よちょっと聞け、このスレに関係ない話だ。
数年前、漏れが吉原で体験したこと。
入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。
スポーツ新聞を読みつつ聞き耳をたてていると、全盲の息子が筆下ろしをしたいと言うので
付き添いで来たらしい。
オバサン(以下母)は色々心配事を口にしていたが、話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」
となだめていた。
暫くたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。
革靴はピカピカで結構いい服をきている。この日のために揃えてあげたのだろう。
母はソファから飛び出して姫と軽く会釈したあと、「どうだった?いいこと出来た?」
青年「うん。よかったよ。このお姉さんのおかげで」
実は姫を指差すつもりが別の方向だったので、姫が素早く指した方向に移動。
母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら「あんたよかったね~!!」と背中を何度もさすっていた。
客も拍手したり「よかったなあ」と激励していて、今まで無口だった893風の客まで立ち上がって
青年の肩をポンポン叩きながら「あんたも一人前の男になったぞ」と祝福していた。
姫も感動して泣いていた。実に素晴らしい光景。
涙腺の弱い漏れは新聞で顔を隠しながら泣いた。