いま、ここ

この「いま、ここ」に本当に満足でき(てい)ない人は、
その「いま」を「何時(いつ)」に変えても、
その「ここ」を「何処(どこ)」に変えても、
本当に満足できる(する)ときはない。
これは言い古された言葉ですが、絶対的な真実です。
故に「全身全霊全力」で、
いま、ここの、この自分に、立ってるしかない。
「全身全霊全力」で、いま、ここ、この事実に突っ立とうとする努力を
「修行」と呼ぶ。
その「今に居る」修行窮まり、どうにもこうにもならぬとき、
この私は「いま、ここ」には居れぬのだと分かったとき、
その挫折的了解の果てに、
すべては、常に/既に、今ここにあったのだと云うことを見出す。
「いま」ではない「何時か」、
「ここ」ではない「何処か」、
その実在しない頭の中の妄想の熄んだとき、
落ちどころ(残る場所)は、
この、始めからあった、「いま、ここ、この事実」しかないからです。

上田三四二の歌と文

ここのところ、『短歌一生― 物に到るこころ』 上田三四二
と云う文庫本を夢中になって(研修中なので少しずつですが)
読んでいます。
図書館でリクエストして借りてみたのですが、10頁くらい眼を通して、
あまりの素晴らしさに、即、amazonの中古にて注文しました。
ため息が出るほど見事な美しい日本語の文章が、
密度、緊張感の途切れないまま、ずらっと続く、驚くべき内容です。
憧れるしかないですが、
これもまた倦まず弛まずの精進によって成り立っている文章なのでしょうね。
短歌論ですが、文章論であり、
私にとっては、見事な「修道論」です。
この歌が好きです。

ちる花はかずかぎりなしことごとく光りをひきて谷にゆくかも

上田三四二 – Wikipedia
『この一身は努めたり』小高賢・著

比較を止める

私たちが「いまの自分の状態は良い(良くない)」と言うとき、
そこには必ず「過去の自分」と「現在の自分」の比較(自分と自分との比較)か、
「いまここに存在していない(過去に本で読んだり人に聞いたりした)他人の意識状態」と「現在の自分の状態」との比較(他人と自分との比較)かのどちらかが存在しています。
現在の状態の評価・認識は常に「現在でないもの」との比較によって成り立っており、
その比較(逃避)を止めることさえできれば、「今、この状態」は、良い悪いを超えた絶対的なる「これ」絶対的なる「善 ・良きもの」として残ります。
この「現在の事実」から「過去・未来」への心理的逃避をいかに止めれるか(比較・認識すら逃避である)と云うところに、この瞬間を真に楽に生きるためのポイントが存在しています。

気づきの言葉

苦しい練習を積まなければ、良い選手になれないように、
言うに言われぬむつかしい人生の難関を潜って来なければ、
ひとかどの人間にはなれないであろう。
苦しいことに出逢ったら、そう思って合掌礼拝して受けとめるのがいい。

……

他人の欠点を見つけ出すのは、いともたやすいことだ。
そして、他人の長所美点を見つけ出して、心から誉め讃えると云うことは、
なかなかできないものである。
人に対して点の辛(から)過ぎる自分をしばしば見出す。

……

人から誤解される苦しさにじっと堪える辛抱が大切である。
生半可な言い訳をしてはならない。
我に存する一片の真心は神のみぞよく知り給う。
実際、お互い人間は、誤解と中傷の只中に生活していると言っても過言ではない。

……

人間は恵まれ過ぎていると、どんなに素質のいい人でも駄目になる恐れがある。
万事意のままになり、失意絶望の地獄を知らない人は、
人の心の奥底を見抜くことや、人の苦しみに対する明察を欠き易い。
恵まれた境遇に在る者は、よほど心して敬虔な態度を堅持しなければならない。

……

「己を以って人を律する」ということは、殆ど例外なく誰もが犯している過ちである。
自分の器量相応にしか、私たちは相手を理解するできない。

……

私に苦言を呈してくれる人は最大の恩人である。
人に苦言を呈すると云うことは、よほどの勇気と慈悲心がなければできないことである。
世間では、苦言を呈した人は殆どの場合、当の相手から憎まれる。
何年かのちになって感謝されることもあるが…