マンホールの下の空洞

日常感覚は死の隠蔽の上にはたらく。
マンホールの上を歩く足は足下に空洞のあるのを忘れている。
知っていてもそのために立ち竦むことはない。
日常感覚も死の空洞の上に鉄板を張って、落ち込むことのないものとして生きている。

『この世 この生』 上田三四二

笑いと悟り

ジョーク(小噺)の笑いと云うのは「気づき-さとり体験」に似ている。

それらに共通するのは、ある限界的な認識の緊張感・張り詰め(論理的・情緒的行き詰まり)から、一気にそれを落として脱臼させて(論理構造の崩壊(分からない、未知の状態)→一瞬後の「新たなる論理構造・パターンの認識」=「認識の転換」→笑い、さとりと云う構造である。

その認識の転換の際に、笑いが起きる。

禅の呵呵大笑、クリシュナムルティの小噺好き、OSHOもラーマクリシュナもジョーク好き。
どうやら覚醒者と言われる人たちは笑いが好きらしい。

また、笑いは、泣くこと(号泣)にも、性的オーガズムにも似て、
つまるところ、全身の(横隔膜の?)痙攣 ・振動なのであろう。

本当に笑っているとき、その原因・理由・意味は意識から退き、大泣きしてるのか何なのか分からなくなる。

子供のときに、何かの理由で延々泣いていて、お母さんに「もう、いい加減に泣きやみなさい。泣き止まないと怒るよ!」と言われても、身体がひきつけてしまい、頭では治めようとするのに止まらなくて、また泣き出してしまった経験はないだろうか。 それに似ている。

胴体・体幹の強い振動は、御祓いであり、悪いものをふるい落とす。

故に笑いは、悪い霊などがよってきた時の最も簡易で有効な防御策であると言われる。

「楽しいから笑うのではない。笑っているから楽しくなるのである」と云うように、身体を笑いで振動させれば、心もそれにつられて浮き浮きしてくる。 「笑う門には福来る」「笑い療法」の持つ力。

……

A子が久しぶりに車を運転していた。
その時、母親が心配そうな声で彼女の携帯に電話を掛けてきた。
「もしもし、A子?母さんよ。今どこ?」
「東名高速に入ったところ」
「東名高速!?気をつけて!今ニュースで言ってたんだけど、
そこを逆走してる狂った女がいるんですって。あなた見なかった?」
「見た見た!でも一台じゃないわよ」
「え?」
「さっきから何台も逆走してるわよ」

書店で客が尋ねた。
「“男が女を支配する方法”という本はどこにあるかね?」
「はい、そちらの『ファンタジー』のコーナーにございます」

ボブは母が毛皮のコートを着るのを見ながら言った。
「かわいそうに。母さんが着るそのコートのおかげで、その動物はひどく苦しい思いをしただろうなぁ」
「黙りなさい! お父さんをそんなふうに言うことは許しません」

「一体どういう意味? 私がお金を使いすぎてるって? 私が使うお金は全部家計のためなのよ。あなたこそ馬鹿げたお金の使い方をしているじゃない」
「ボクがどんな馬鹿げた使い方をしているっていうんだい?」
「例えばあれを見て。あなたが買ってきたあの役立たずの消火器、もう二年も経ったのにまだ一度も使っていないじゃない」

無神論者の言葉

思わず笑っちゃうのが幾つかありました。
らばQ:「神はいない?」偉人たちの無神論的な50の格言
http://labaq.com/archives/50944400.html
 
「信仰を持つものが無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せなことに似ている」
「宗教のために行われる罪でなければ、人間はあれほど完全に楽しそうに悪事を行わない」
「基本的に君たちは、どちらが妄想の世界に良い友人を持っているかで殺しあってるんだ」
「宗教があろうとなかろうと、善い人は善い行いを、悪い人は悪い行いをする。
しかし宗教によって善い人も悪い行いをする」
「見えないのと、存在しないのは、よく似ている」
「宗教のことを一般人は真実とみなしており、賢者は偽りとみなしており、支配者は便利とみなしている」
「我々の知らないことは神である。知っていることは科学である」

伝統の内と外

私にとってクリシュナムルティと云う人の存在は、かっても今も特別で、
彼の言葉ほど心に響くものにはこれまで出合ったことがありません。
それは十八歳のときの初読から現在に至るまで変わることなく続いてきた感情で、常に私の探求を導く糸(霧海の南針)でした。
ですので、いま、「二十年間色々グルグルやってきて、やっと出発点の”ここ”に戻ってこれた、やっと支度が整った」との感慨深さもあります。
こちらの研修メニューは全て「クリシュナムルティの教えを凡人が理解し実践していくためにはどうしたらいいのか」との問いへの、自分なりの二十年目の卒業論文、これまで全ての集大成であるとも言えます。
具体的技法の面では、禅 ・ヴィパッサナー ・内観など、伝統仏教の影響も色濃く受けており、自身の内面においても、それらに対する思い入れ ・愛情は、強く、深く、存在します。
しかし、気づきの研修は、それら、どの伝統 ・技法内の実践でもありません。
それは常にその外にある、新たなる実践(実験)です。
私の関心は専ら、それら伝統 ・技法のなかに存在する「気づきの方法論」を、純化 ・抽出し、脱神話化 ・脱宗教化して、現代に生きる私たちに確実に使える道具として提出することにあります。

全治の即時性

全治の即時性― 造作のいらない『心の離れ技』
「気づき」が全的に働く様子をうまく捉えたタイトルだと思います。

浮くにまかす

息を止めて、ゆっくり身体を沈めれば、
カラダは自然に浮き上がってくる。
しかし、もがけば沈む。
なにもしないで、まかすこと。
“それ”が起こることを信じて、身も心も動かさないで。
予想し得る最悪のこと、
それは、いま、私の頭の中にしか存在しない。
頭の中の”悪いこと”を、現実態としてしまわぬよう、
それがどこにも存在しない現在の瞬間を見ること。
そして全面的に― 任せられない自分も含めて― 恐れないで任すこと。