ラーマの思し召し

ラーマクリシュナの言葉からの抜粋。
弟子の質問「あの御方のところに心がすっかり行ってしまっても、
なおこの世界に住んでいなければならないのでしょうか?」
に対するラーマクリシュナのお答え。
「どうしてさ? 世の中に住まないで、じゃ、どこに行くんだい?
わたしはどこに住んでいても、そこが神の都だと思っているよ。
この世界、この世は、神の都だ。
ラーマ王子は師のもとで智識を得たあと、『私は世を捨てる』と、おっしゃった。
心配した父王ダサラタは、息子を説得してくれるようにと、賢者バシスタをさし向けた。
賢者は、ラーマ王子の激しい離欲の心を読み取り、こう言った。
『ラーマ王子よ、私と一緒によく考えてみよう。それから世を捨てても遅くはない。
では、訊くが、この世は神の外にあるのかい? もし、そうなら、さっさと捨てたらいいだろう。』
そのときラーマ王子は悟った。神ご自身が、人間やこの世界のすべてのものなっていらっしゃることを。
そして、あの御方が実在するからこそ、この世のすべてのものは本当にあるように感じられるのだ、ということを。
ラーマ王子は、そこで黙ってしまった。
風のなかの枯葉のような気持ちでこの世に住んでいなさい。
風は枯葉を家の中に運んだり、ゴミの山に運んでいったりする。
風の吹くまま、どこにでも飛んでいく。
結構な場所だったり、ひどい場所だったり!
神様は、今はお前を世間という場所に置かれた。
けっこうじゃないか、今はそこに住んでいなさい。
またそこからもっといい場所に運んで落としてくださったら、
その時は、またその時のようにすればいい。
ラムプラサドは歌っている。
『いのちの海に われ住みて
 波のまにまに 浮き沈み
 潮の満干の 往き還り』
あの御方がここに置きなさったのだ、しょうがなかろう。
もういっそ、何もかもあの御方に任せきってしまえ。
あの御方に、素直になって自分を任せきっておしまいよ。
そうすりゃ、何の心配も面倒もない。
そうしたら、すべてはあの御方がなさっていることが分かってくるよ。
『すべてはラーマ(神)の思し召し』ということがね。」
弟子がそれに対して「『ラーマの思し召し』とは、どういうことですか?」と質問します。
以下は、ラーマクリシュナのお答え。
「ある村に一人の機織職人が住んでいた。
とても信心深くて心がけの良い人なので誰もが彼を信頼し愛していた。
この職人は自分の織った布を市場で売っていた。
買い手が値段を訊くと、
『ラーマの思し召しで、糸の値段が1ルピー。
ラーマの思し召しで工賃が4アナ。
ラーマの思し召しで儲けが2アナ。
だから、布の値段はラーマの思し召しで、1ルピーと6アナになりやす。』
人々は、彼を信頼していたので、値切りもせず即金で買っていく。
彼は熱心な信仰者なので、夕飯が終わると、ドルガのお堂の前で、長い時間座り、
神を想い、称名賛歌を唱えるのが習慣だった。
ある晩のこと、夜がふけても眠くならないので、外でタバコを吸っていた。
すると、前の道を一群の盗賊が強盗しに行くために通りがかった。
盗賊は荷物運びが不足していたので、その職人を『一緒に来い』と無理やり引っ張っていった。
それからある家に押し入って強盗を働いた。
いくつかの品物を職人の頭にのせて運ばせた。
そこへ警察が来て、強盗は全員逃げて行ったが、
その機織職人だけが品物を頭にのせたまま、警察につかまってしまい、
その晩、留置所で過ごすことになった。
翌日、村の人々がそのことを聞いて、やってきて、警察署の署長に、
『あの人が、盗みをすることはありません。何かの間違いです。』と訴えた。
そこで。署長は機織職人に、どういうわけなのか話してみるように言った。
すると、職人は答えた。
『ラーマの思し召しで、昨晩、ごはんを食べました。
それから、ラーマの思し召しでドルガのお堂の前に座りました。
そのうち、ラーマの思し召しで夜が更けていきました。
ラーマの思し召しで、あの御方を想い、称名したり、賛歌を歌ったりしていました。
ラーマの思し召しで、眠れずにいたところ、ラーマの思し召しで強盗の一団が通りかかりました。
ラーマの思し召しで、あいつらは、あっしの手をつかんでひっぱって、
ラーマの思し召しで、あいつらは一軒の家に押し入って、
ラーマの思し召しで、あいつらは、あっしの頭に荷物をのせました。
ちょうどそこに、ラーマの思し召しで警察の旦那がおいでなすって、
あっしを捕まえていただきました。はい。
それから、ラーマの思し召しで留置所に入れていただきまして、
そうして今朝になって、こうして署長様に、ラーマの思し召しで・・・・」
署長は、機織職人が嘘を言っているようには見えなかったので、釈放した。
家に帰る途中、職人は仲間に『ラーマの思し召しで釈放された』と話していたそうだよ。
世間で暮らすことも、出家することも、あの世に行くことも、すべてはラーマの思し召しなのだ。
だから、あの御方に一切を任せきって世間の仕事をしていなさい。
そうでなきゃ、いったい何をするんだい?
悟りを得た者は、いとも安楽にこの世に住んでいられるよ。
神について正しい智識を得た人にとっては、この世もあの世もないんだ。
どこも同じさ。」

迷いと悟り

まず始めに必要なのは「私たちは決して、悟りや覚醒や見性体験を求めて、このような探求 ・探索を始めた訳ではない」との明確な理解です。

私たちの探求の、そもそもの出発点はどこにあったのでしょう?

それは、日々職場に通い、せわしなく働き、疲れて家に戻り、共に暮らす家族との感情に満ちたやりとりがあり、限られた休日の友人との交流や娯楽がありの、取りたてて素晴らしくも華やかでも愛に満ちてもいない、この日々の、あたりまえな生活のなかにではないでしょうか。

その生活のなかで、私たちが感じ ・抱える、あらゆる不満 ・痛み ・苦しみ―からだの、こころの、劣等感と優越感の、身体的不調と老いの衰えの、他者や環境に対する止められない怒りやイライラの、日々の趣味・娯楽と、なお満たされることのない生の虚しさ ・退屈の感覚の、仕事に関する物足りなさと経済的な先行き不安の、くすぶり続ける性的欲求の不全感の―それら「様々な(身体/心理的)不満 ・痛み ・苦しみ」と、「そこから解放されたい、どうにか楽になりたい」との思いの現実があったからこそ、私たちは何かを始めてみようと思ったのでしょう。

それが、いつのまにか瞑想宗教的な「さとり」「覚醒」の文脈に絡み取られ、
気がつくと私たちは、そもそもの動機と目的を勘違いしてしまっています。
「さとり」や「覚醒」を目指して情報収集し、瞑想実践をしているような錯覚を起こしてしまうのです。
しかし、「不満、不安、苦しみ」こそが現実であり、「さとり、覚醒」は夢でしかありません。

その「罠」に陥ることのないよう気をつけなければなりません。

私は、そもそも、何が問題で(何が苦しくて、何を解決したくて)、こんなことを始めたのか?
何が、そもそもの出発点だったのか?

それを改めて、真摯に、真剣に、知識や理論による雑音なしに、無防備に、問わなくてはなりません。

その問いと、それに対する答えが明確であるとき、はじめて道の出発点に立てています。
そのとき、行が実質を伴ったものとして展開し始めます。

「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり」

「迷いを悟る」のが気づきの修行であり、「悟りに迷う」道を歩む必要はありません。

研修は、その始めから終わりまで、不満 ・痛み ・苦しみ実感のみに目を据えて行なわれなければならず、そこに「さとり」「覚醒」という夢、もっと良い状態のイメージ(心象)を混入させ、気づき ・観察のエネルギーを逸らして(漏らして)しまってはならないのです。

事実のみ

問題はなく、事実だけがある。
答えはなく、問いの熄む地点だけがある。
あらゆる問題が気づきによって無効化され、
そこに残るのは事実のみとなる。
それはどの瞬間においても完全で完結しており、
別の状態としての未来を必要としない。

車の喩え

いつかは知らぬ御先祖さまの代から、実家の倉庫に眠っている古い自動車がありました。
誰にも目をやられること無く、ほこりを被ってボロボロで、そのままではとても動きません。 家族はみんな、「もう、そんな車処分して、はやく新しいの買ったら?」と言います。

しかし、色々考えた末、そのオンボロ車を自動車工場へ整備に出し、徹底的に点検し、駄目な部品は取り替え、アライメント調整をし、その車の持つ機能 ・性能を最大限引き出すための手入れを行いました。

そうして戻ってきたその車は、実際に乗ってみると、なんと、現在どこへ行ってどれだけお金を積んで探しても絶対に見つからないほどの、機能性と美しさ、スピードと安定性、それら全てを備えた超 ・スーパーカーであったとさ。
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これは研修によって経験される、私たちの内なる「気づき」の能力を喩えたものです。
その能力は、私たちが生きていく上で出会う、あらゆる問題を観て、解いていくのに、比類のない力を発揮します。

マンホールの下の空洞

日常感覚は死の隠蔽の上にはたらく。
マンホールの上を歩く足は足下に空洞のあるのを忘れている。
知っていてもそのために立ち竦むことはない。
日常感覚も死の空洞の上に鉄板を張って、落ち込むことのないものとして生きている。

『この世 この生』 上田三四二

笑いと悟り

ジョーク(小噺)の笑いと云うのは「気づき-さとり体験」に似ている。

それらに共通するのは、ある限界的な認識の緊張感・張り詰め(論理的・情緒的行き詰まり)から、一気にそれを落として脱臼させて(論理構造の崩壊(分からない、未知の状態)→一瞬後の「新たなる論理構造・パターンの認識」=「認識の転換」→笑い、さとりと云う構造である。

その認識の転換の際に、笑いが起きる。

禅の呵呵大笑、クリシュナムルティの小噺好き、OSHOもラーマクリシュナもジョーク好き。
どうやら覚醒者と言われる人たちは笑いが好きらしい。

また、笑いは、泣くこと(号泣)にも、性的オーガズムにも似て、
つまるところ、全身の(横隔膜の?)痙攣 ・振動なのであろう。

本当に笑っているとき、その原因・理由・意味は意識から退き、大泣きしてるのか何なのか分からなくなる。

子供のときに、何かの理由で延々泣いていて、お母さんに「もう、いい加減に泣きやみなさい。泣き止まないと怒るよ!」と言われても、身体がひきつけてしまい、頭では治めようとするのに止まらなくて、また泣き出してしまった経験はないだろうか。 それに似ている。

胴体・体幹の強い振動は、御祓いであり、悪いものをふるい落とす。

故に笑いは、悪い霊などがよってきた時の最も簡易で有効な防御策であると言われる。

「楽しいから笑うのではない。笑っているから楽しくなるのである」と云うように、身体を笑いで振動させれば、心もそれにつられて浮き浮きしてくる。 「笑う門には福来る」「笑い療法」の持つ力。

……

A子が久しぶりに車を運転していた。
その時、母親が心配そうな声で彼女の携帯に電話を掛けてきた。
「もしもし、A子?母さんよ。今どこ?」
「東名高速に入ったところ」
「東名高速!?気をつけて!今ニュースで言ってたんだけど、
そこを逆走してる狂った女がいるんですって。あなた見なかった?」
「見た見た!でも一台じゃないわよ」
「え?」
「さっきから何台も逆走してるわよ」

書店で客が尋ねた。
「“男が女を支配する方法”という本はどこにあるかね?」
「はい、そちらの『ファンタジー』のコーナーにございます」

ボブは母が毛皮のコートを着るのを見ながら言った。
「かわいそうに。母さんが着るそのコートのおかげで、その動物はひどく苦しい思いをしただろうなぁ」
「黙りなさい! お父さんをそんなふうに言うことは許しません」

「一体どういう意味? 私がお金を使いすぎてるって? 私が使うお金は全部家計のためなのよ。あなたこそ馬鹿げたお金の使い方をしているじゃない」
「ボクがどんな馬鹿げた使い方をしているっていうんだい?」
「例えばあれを見て。あなたが買ってきたあの役立たずの消火器、もう二年も経ったのにまだ一度も使っていないじゃない」