気づきの言葉

苦しい練習を積まなければ、良い選手になれないように、
言うに言われぬむつかしい人生の難関を潜って来なければ、
ひとかどの人間にはなれないであろう。
苦しいことに出逢ったら、そう思って合掌礼拝して受けとめるのがいい。

……

他人の欠点を見つけ出すのは、いともたやすいことだ。
そして、他人の長所美点を見つけ出して、心から誉め讃えると云うことは、
なかなかできないものである。
人に対して点の辛(から)過ぎる自分をしばしば見出す。

……

人から誤解される苦しさにじっと堪える辛抱が大切である。
生半可な言い訳をしてはならない。
我に存する一片の真心は神のみぞよく知り給う。
実際、お互い人間は、誤解と中傷の只中に生活していると言っても過言ではない。

……

人間は恵まれ過ぎていると、どんなに素質のいい人でも駄目になる恐れがある。
万事意のままになり、失意絶望の地獄を知らない人は、
人の心の奥底を見抜くことや、人の苦しみに対する明察を欠き易い。
恵まれた境遇に在る者は、よほど心して敬虔な態度を堅持しなければならない。

……

「己を以って人を律する」ということは、殆ど例外なく誰もが犯している過ちである。
自分の器量相応にしか、私たちは相手を理解するできない。

……

私に苦言を呈してくれる人は最大の恩人である。
人に苦言を呈すると云うことは、よほどの勇気と慈悲心がなければできないことである。
世間では、苦言を呈した人は殆どの場合、当の相手から憎まれる。
何年かのちになって感謝されることもあるが…

祈り 意宣り 意乗り

私達はエネルギーレベルでは、みんな一つにつながっています。
だからこそ、みんなが一つになって祈り(意宣り)を送る事には意味があると想います。
私達の祈り(意乗り)は必ず被災地の方々に届いてると信じています。
また、何かを購入する時には、お金を支払う事によって、お店の人や商品を作っている人や流通業者の人など、関わる全ての人がしあわせになるという事に想いを馳せて使いましょう。
これも祈りですから・・・。
多くの読者様から、原発について「不安だ」「怖い」・・・のご連絡を頂いております。
そのような想いもわかるのですが・・・
怖い、不安の前に少しでもいいから考えてほしいと想います。
私達は今までたくさんたくさん、原発のお世話になってきていますよね。
私達の為に今まで一生懸命動いてきてくれたお蔭で随分と快適な暮らしが出来ていたのですよね。
それなのに、いざこのような事態になると、今までの事をすっかり忘れてしまい、ただ恐れて非難を浴びせています。(お蔭様を忘れていた?)
原発を作り、使ってきたのは私達です!
万物の霊長たる人間が、万物の同胞として付き合ってきた原発を今、痛烈に拒絶して批判しています。
そんなのでいいのでしょうか・・・??
みんなで原発に向けているネガティヴのエネルギーを感謝のエネルギーに代えましょう。
そして、今この時間にも続いている余震や原子力発電所の事故、停電など、困難な状況下で救援活動に命がけであたっておられる方々にも心から感謝のエネルギーを送りましょう。
私がかつて教わった「万物の祈り」をご紹介します。(教室でも毎回祈っています)
万物がしあわせでありますように
万物が幸福でありますように
万物が幸運でありますように
万物が愛でありますように
万物が平和でありますように
万物が調和でありますように
万物に祝福が与えられますように
みんなの感謝のエネルギーを受け取った原発はきっと判ってくれますよ。
そして、あらゆる状況がどんどん善くなっていくはずです。
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夢を叶える心のストレッチ【万物の祈り】より
ブリージングストレッチ院のホームページ

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いま、みんなが『自分が大事病』にかかっていることを、先生は憂えています。
 これは、『自分が好き』=自己信頼が出来ている状態とは似て非なるものです。
 自分が大事病の別名は、<不安>です。つまり、自己信頼が出来ていない。
 だから外部に頼ろうとする。
 
 買占めなんか典型ですね=モノに頼ろうとする。
 情報ばっかり欲しがるのも同じ。
 当然、ある程度の備えや情報は必要です。しかし、余りにもモノや情報を追いかけると、『何故そんなにまでして?』と潜在意識が疑問を持ちはじめます。
 だから、ドンドン不安感を自分で増幅させて行くことになります。しまいには、心がメルトダウンを起こすでしょう。
 
 こういう精神状態だと、デマを流す人に、コロッとやられてしまう。或いは頼れそうな人にすがって行きます。
 日本のアチコチで、色んな人が『原発事故は長年の我が予測のとおり。誰も知らない真相を語ろう』などとネット上で情報を流したり、講演を開いたりしているようです。
 なかには、『もはや絶望・滅亡あるのみ』などと断言する人さえ居ます。
 そこまで確信しているのに、なんで真っ先に海外に逃げなかったの?という氣もしますが(笑)。
チンパンのブログ

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ほぼ日刊イトイ新聞 – 東日本大地震のこと。
http://www.1101.com/20110311/index.html

ラーマの思し召し

ラーマクリシュナの言葉からの抜粋。
弟子の質問「あの御方のところに心がすっかり行ってしまっても、
なおこの世界に住んでいなければならないのでしょうか?」
に対するラーマクリシュナのお答え。
「どうしてさ? 世の中に住まないで、じゃ、どこに行くんだい?
わたしはどこに住んでいても、そこが神の都だと思っているよ。
この世界、この世は、神の都だ。
ラーマ王子は師のもとで智識を得たあと、『私は世を捨てる』と、おっしゃった。
心配した父王ダサラタは、息子を説得してくれるようにと、賢者バシスタをさし向けた。
賢者は、ラーマ王子の激しい離欲の心を読み取り、こう言った。
『ラーマ王子よ、私と一緒によく考えてみよう。それから世を捨てても遅くはない。
では、訊くが、この世は神の外にあるのかい? もし、そうなら、さっさと捨てたらいいだろう。』
そのときラーマ王子は悟った。神ご自身が、人間やこの世界のすべてのものなっていらっしゃることを。
そして、あの御方が実在するからこそ、この世のすべてのものは本当にあるように感じられるのだ、ということを。
ラーマ王子は、そこで黙ってしまった。
風のなかの枯葉のような気持ちでこの世に住んでいなさい。
風は枯葉を家の中に運んだり、ゴミの山に運んでいったりする。
風の吹くまま、どこにでも飛んでいく。
結構な場所だったり、ひどい場所だったり!
神様は、今はお前を世間という場所に置かれた。
けっこうじゃないか、今はそこに住んでいなさい。
またそこからもっといい場所に運んで落としてくださったら、
その時は、またその時のようにすればいい。
ラムプラサドは歌っている。
『いのちの海に われ住みて
 波のまにまに 浮き沈み
 潮の満干の 往き還り』
あの御方がここに置きなさったのだ、しょうがなかろう。
もういっそ、何もかもあの御方に任せきってしまえ。
あの御方に、素直になって自分を任せきっておしまいよ。
そうすりゃ、何の心配も面倒もない。
そうしたら、すべてはあの御方がなさっていることが分かってくるよ。
『すべてはラーマ(神)の思し召し』ということがね。」
弟子がそれに対して「『ラーマの思し召し』とは、どういうことですか?」と質問します。
以下は、ラーマクリシュナのお答え。
「ある村に一人の機織職人が住んでいた。
とても信心深くて心がけの良い人なので誰もが彼を信頼し愛していた。
この職人は自分の織った布を市場で売っていた。
買い手が値段を訊くと、
『ラーマの思し召しで、糸の値段が1ルピー。
ラーマの思し召しで工賃が4アナ。
ラーマの思し召しで儲けが2アナ。
だから、布の値段はラーマの思し召しで、1ルピーと6アナになりやす。』
人々は、彼を信頼していたので、値切りもせず即金で買っていく。
彼は熱心な信仰者なので、夕飯が終わると、ドルガのお堂の前で、長い時間座り、
神を想い、称名賛歌を唱えるのが習慣だった。
ある晩のこと、夜がふけても眠くならないので、外でタバコを吸っていた。
すると、前の道を一群の盗賊が強盗しに行くために通りがかった。
盗賊は荷物運びが不足していたので、その職人を『一緒に来い』と無理やり引っ張っていった。
それからある家に押し入って強盗を働いた。
いくつかの品物を職人の頭にのせて運ばせた。
そこへ警察が来て、強盗は全員逃げて行ったが、
その機織職人だけが品物を頭にのせたまま、警察につかまってしまい、
その晩、留置所で過ごすことになった。
翌日、村の人々がそのことを聞いて、やってきて、警察署の署長に、
『あの人が、盗みをすることはありません。何かの間違いです。』と訴えた。
そこで。署長は機織職人に、どういうわけなのか話してみるように言った。
すると、職人は答えた。
『ラーマの思し召しで、昨晩、ごはんを食べました。
それから、ラーマの思し召しでドルガのお堂の前に座りました。
そのうち、ラーマの思し召しで夜が更けていきました。
ラーマの思し召しで、あの御方を想い、称名したり、賛歌を歌ったりしていました。
ラーマの思し召しで、眠れずにいたところ、ラーマの思し召しで強盗の一団が通りかかりました。
ラーマの思し召しで、あいつらは、あっしの手をつかんでひっぱって、
ラーマの思し召しで、あいつらは一軒の家に押し入って、
ラーマの思し召しで、あいつらは、あっしの頭に荷物をのせました。
ちょうどそこに、ラーマの思し召しで警察の旦那がおいでなすって、
あっしを捕まえていただきました。はい。
それから、ラーマの思し召しで留置所に入れていただきまして、
そうして今朝になって、こうして署長様に、ラーマの思し召しで・・・・」
署長は、機織職人が嘘を言っているようには見えなかったので、釈放した。
家に帰る途中、職人は仲間に『ラーマの思し召しで釈放された』と話していたそうだよ。
世間で暮らすことも、出家することも、あの世に行くことも、すべてはラーマの思し召しなのだ。
だから、あの御方に一切を任せきって世間の仕事をしていなさい。
そうでなきゃ、いったい何をするんだい?
悟りを得た者は、いとも安楽にこの世に住んでいられるよ。
神について正しい智識を得た人にとっては、この世もあの世もないんだ。
どこも同じさ。」

迷いと悟り

まず始めに必要なのは「私たちは決して、悟りや覚醒や見性体験を求めて、このような探求 ・探索を始めた訳ではない」との明確な理解です。

私たちの探求の、そもそもの出発点はどこにあったのでしょう?

それは、日々職場に通い、せわしなく働き、疲れて家に戻り、共に暮らす家族との感情に満ちたやりとりがあり、限られた休日の友人との交流や娯楽がありの、取りたてて素晴らしくも華やかでも愛に満ちてもいない、この日々の、あたりまえな生活のなかにではないでしょうか。

その生活のなかで、私たちが感じ ・抱える、あらゆる不満 ・痛み ・苦しみ―からだの、こころの、劣等感と優越感の、身体的不調と老いの衰えの、他者や環境に対する止められない怒りやイライラの、日々の趣味・娯楽と、なお満たされることのない生の虚しさ ・退屈の感覚の、仕事に関する物足りなさと経済的な先行き不安の、くすぶり続ける性的欲求の不全感の―それら「様々な(身体/心理的)不満 ・痛み ・苦しみ」と、「そこから解放されたい、どうにか楽になりたい」との思いの現実があったからこそ、私たちは何かを始めてみようと思ったのでしょう。

それが、いつのまにか瞑想宗教的な「さとり」「覚醒」の文脈に絡み取られ、
気がつくと私たちは、そもそもの動機と目的を勘違いしてしまっています。
「さとり」や「覚醒」を目指して情報収集し、瞑想実践をしているような錯覚を起こしてしまうのです。
しかし、「不満、不安、苦しみ」こそが現実であり、「さとり、覚醒」は夢でしかありません。

その「罠」に陥ることのないよう気をつけなければなりません。

私は、そもそも、何が問題で(何が苦しくて、何を解決したくて)、こんなことを始めたのか?
何が、そもそもの出発点だったのか?

それを改めて、真摯に、真剣に、知識や理論による雑音なしに、無防備に、問わなくてはなりません。

その問いと、それに対する答えが明確であるとき、はじめて道の出発点に立てています。
そのとき、行が実質を伴ったものとして展開し始めます。

「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷するは衆生なり」

「迷いを悟る」のが気づきの修行であり、「悟りに迷う」道を歩む必要はありません。

研修は、その始めから終わりまで、不満 ・痛み ・苦しみ実感のみに目を据えて行なわれなければならず、そこに「さとり」「覚醒」という夢、もっと良い状態のイメージ(心象)を混入させ、気づき ・観察のエネルギーを逸らして(漏らして)しまってはならないのです。

事実のみ

問題はなく、事実だけがある。
答えはなく、問いの熄む地点だけがある。
あらゆる問題が気づきによって無効化され、
そこに残るのは事実のみとなる。
それはどの瞬間においても完全で完結しており、
別の状態としての未来を必要としない。

車の喩え

いつかは知らぬ御先祖さまの代から、実家の倉庫に眠っている古い自動車がありました。
誰にも目をやられること無く、ほこりを被ってボロボロで、そのままではとても動きません。 家族はみんな、「もう、そんな車処分して、はやく新しいの買ったら?」と言います。

しかし、色々考えた末、そのオンボロ車を自動車工場へ整備に出し、徹底的に点検し、駄目な部品は取り替え、アライメント調整をし、その車の持つ機能 ・性能を最大限引き出すための手入れを行いました。

そうして戻ってきたその車は、実際に乗ってみると、なんと、現在どこへ行ってどれだけお金を積んで探しても絶対に見つからないほどの、機能性と美しさ、スピードと安定性、それら全てを備えた超 ・スーパーカーであったとさ。
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これは研修によって経験される、私たちの内なる「気づき」の能力を喩えたものです。
その能力は、私たちが生きていく上で出会う、あらゆる問題を観て、解いていくのに、比類のない力を発揮します。