・ 人の運命は、おのずと決まっている。
・ ただし善行を積み(「積善」)自分の過ちを改善する(「改過」)ことにより、自分の運命を変えることができる。
・ このように自助努力で運命を変えることを「立命」という。
・ 人知れず、陰ながら善行・徳を積む、「陰徳を積む」ことで、自分の人生を良い方向に変えることができる。
ITエンジニアを続けるうえでのヒント~あるプロジェクトマネージャの“私点”(6)
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/eh06/eh01.html
☆ぶにろぐ☆
このような観念をラメッシ・バルセカールの観念と両立させることで、
より深みのある認識-行動が生まれると思います。
矛盾したものの対立・両立・鬩ぎ合いが、より深く高い認識まで至らせる。
単に片方を受け入れ、片方を捨てるのではなく。
全面的不自由(条件づけ)と、絶対的(禅的)自由
「人生は選択である」と「人生は運命である」
投稿者: 霊基
『逆転世界』
しばらく前に読んだのですが、最後のどんでん返しが大掛かりで、
SFらしいSFでした。
つまりは「宗教」を扱ったお話であったのだな、
と最後ごろになって気がつきます。
時間のある方にオススメです。
忙しい方は、特に時間を割くほどでもないかも知れないです。
『逆転世界』 (創元SF文庫) クリストファー プリースト
逆転世界
未読ですが、同作者による、この本も面白そうです。
『奇術師』 (ハヤカワ文庫 FT) クリストファー・プリースト
10日間の心の手術
それが、内観であれ、ヴィパッサナーであれ、ボディワークであれ、
リトリートとはつまり大掛かりな心の手術であり、
そのことによって、積年抱えていた病・痛み・不具合が解消される。
それだけの手術に臨むのだから、それなりの覚悟は必要で、
まず、入院前の先生の注意(体調管理など)をキチンと守ること。
また、手術が始まってしまったら、痛いからといって途中で止めることはできないことの理解。
開腹した状態で、「想像してたより痛いから、このままウチに帰らせてください」と言われて、「ああ、そうですか」と言って帰らせてくれるお医者さんは居ないでしょう。
やり始めたら、最後までやる、と云う決意が必要です。
内観、ボディワーク、瞑想は、病院に喩えれば、それぞれ科の違いに似ています。
内科、皮膚科、歯科など。
しかし、その方の抱える問題を、総合的に解決しようとする点では同じです。
そして、気づきの手術は、ただ一つの道具、「気づき」というレーザーメスを使って行ないます。 その道具を自分の心のなかに作り上げます。
「この心の痛み・苦しみから、どうにか解放されたい、楽になりたい。
そのためには、自分にできる限りでの努力は厭わない」と云う気持ちが定かであれば、研修はうまくいきます。
テクニック ・技術が人を変えるのではありません。
求心のみが、極限まで高まった「どうにかしたい、どうにかなりたい」と云う心のみが、それ自体を変容させます。
そのためのエネルギーの流れ道として、技法・技術があります。
気づきのトレーニング
気づきは光に似て、ひかり(気づき)があれば、闇(見えてなさ)は消える。
はっきりと見えれば、見えないが故に怖れ、こんがらがっていた事実誤認の状態は終わり、良くも悪くも事実が白日の下に曝される。
闇を無くすためにできることは光をもたらすことだけであり、
その光さえあれば、すべては明らかになり、消える。
その気づき-意識の光の強さに耐えられるよう脳を訓練すること(改造すること)、
その光の強さに眼が眩んでしまわないよう徐々に眼を慣らしていくことが、
気づきの修行であり、
その集中的なトレーニングを、気づきの耐久レ-スであるリトリートで行なう。
それは、無い気づきを作るためではなく、
既にある、遍満し、充溢している気づきを脳が感受 ・認識 ・使用できるよう
調整(チューニング)するための訓練である。
気づきの言葉
まわり道は無駄ではなかった。
考えてみれば、最短距離を行くなんて、凡そつまらない生き方ではないか。
■
「よく言う」ことは大変むつかしいことである。
しかし、「よく黙する」ことは、もっとむつかしいことなのである。
その沈黙には、百万言に勝る力がなければならない。
「維摩の一黙、雷の如し」と言われた。
■
どうにもならない生徒を与えられたら、教師は、これこそ、我をして一人前の教師にして下さる菩薩の化身なりと合掌礼拝して受け取るべきである。
■
自分の弱さ(愚かさ、つまらなさ)に徹して、はじめて強くなれる。
強がりほど弱いものはない。
■
「初心」というものは、すがすがしく尊いものであるが、
やがてその道のベテランになるにつれて「初心」を失いつつある姿は、実に醜いものである。
その醜さは他人には分かるが、自ら気づくことは至難である。
■
自分が罪深き人間であり「地獄一定」なることを、真の宗教者は知っている。
■
ただ一つのものを見つめておればいい。
そして、まっすぐに歩くのだ。 よそ見をすると危ない。
■
苦難は、まともに受けて起つのがよい。
逃れようという卑怯な心を生じてはならない。
逃れようというのは、自分が可愛いからである。
「己を愛するは良からぬことなり」と南洲も説いている。
■
どんなにあがいても、どうにもならないときがある。
あがいている人間を救うために、神の大愛は働いているのであるが、
当の本人は、それに気がつかないで、苦しみ悲しんでいる。
これは人智の及び難い世界である。
■
「捨てる神あれば拾う神あり」というが、
本当に捨てられることは、本当に拾われることである。
■
両手を離せ。
放してしまえば、抱き取られる。
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上村秀雄 『歩むもの』抜粋
気づきの言葉
打ち込めば打ち込むほど自分の魂が浄化される―
元来、仕事とはそんなものであるが、
教師の場合、教え子を通して、その浄化作用が特に著しい。
尊く、且つ有り難い仕事である。
■
私の心さえ澄んでおれば、あらゆるものは善意に解釈できるのである。
わが一心を磨き澄ますことに全力を傾けねばならない。
■
教えるは学ぶの半ば― というよりは、教えること、即学ぶことである。
教師は生徒に教えつつ、実は学んでいるのである。
俸給を貰って、いつも勉強させて貰っている―
こんな有り難い仕事が他にあるであろうか。