シモーヌ・ヴェイユの言葉

純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。 
苦痛や極度の疲労がこうじて、たましいの中にこれは果てしなく続くのではないかとの感じが生じるまでになったとき、その果てしなさを素直に受け入れ、愛しつつ、それをじっと見つめつづけるならば、人は、この世からもぎ離されて、永遠にいたる。 「重力と恩寵」
神を否定する人の方が、おそらくは神により近い。 「ノート」
神について考えようとするときに、何ひとつ捨てようとしない者は、自分の偶像の
ひとつに、神の名をつけているにすぎない。このことにはどんな例外もない。
神の恩寵は、しばしば不幸のさなかにおいてさえ、われわれに美を感じさせる。
そのとき、ひとがそれまで知っていた美よりももっと純粋な美が啓示されるのだ。 「超自然的認識」
外的な成功を得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけがはいることのできる、真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできないということを、くやしく思っていたのでした。真理のない人生を生きるよりは死ぬ方がよいと思っておりました。数ヶ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、しかも永遠に、いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無にひとしい者であっても、もしその人間が真理を欲し、真理に達すべくたえず注意をこめて努力するならば、天才にだけ予約されているあの真理の王国にはいれるのだという確信を抱いたのです。たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の目には見えないことがあっても、この人もまた、こうして一人の天才となるのです。 「神を待ちのぞむ」
さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて同一の真理の種々ことなった反映にすぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです。ところがこのことが理解されていません。各人はこれらの伝承のひとつだけを生きており、他の伝承は外側からながめているからです。 「ある修道士への手紙」より
「シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)の言葉」から

盤珪禅師

63歳、江戸の光林寺で百三十人と共に冬安居。この時、盤珪の弟子、逸山が悟る。
逸山、禅堂にて、豁然として機が転じることがあって、独参して言う。「私はこれまで師の言葉を信得して、師の言葉にだまされていました。今日は師の言葉に依らず、直に己事を識得しました。これも師の説法のおかげです。その心境は言葉にできません。」
盤珪、「言わなくても、わかっている。」
逸山、「師は、平常大悟ということはないとおっしゃるけれども、今日の私から見れば、人々自知する所なくては、法は手にはいることはできません。臨済は黄檗のもとで、三度仏法の大意を問うて、三度打たれたけれども、発明ありませんでした。しかし、大愚一言の下にて機を転じ『元来黄檗の仏法多子なし』と言ったのは、臨済の自知です。」
盤珪、「古人といえば、格別すぐれているように思うが、今人と何もかわることはない。臨済が機を転じたのは臨済の入所である。古今の参学者で、一回も入所がないということはない。しかし、そこに止まれば、少を得て足れりとする。その後、大親切のものでなければ、法眼円明は成就しがたい。」
逸山、「あえて尊命を疑うわけではありません。しかし、今私は、法においていささかも疑いありません。この上、何とも力のつけようがありません。」
盤珪、「疑いもなく問いもない境地に到ることはやさしい。法は甚深であり、智恵は甚深である。到れば到るほど深い。それゆえ私は、生涯一言の許可もしない。それが人のためである。」(『法語』六三、A119、B43)
現代人の禅 より
日本の禅とその歴史:その2
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/nipponnzen.2.html
盤珪禅師説法を読む
http://www7a.biglobe.ne.jp/~chotto/zakkan/busshin/

ゾクチェン

ゾクチェン – Wikipedia
ゾクチェン入門 (その1) 中沢 新一
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『ゾクチェンの教え』 ナムカイ・ノルブ・リンポチェ著からの抜粋
ゾクチェンの教えは哲学ではないし、宗教の教義でも、文化的伝統でもない。教えの意味を理解するというのは、心が作りだす自己欺瞞や歪曲をはぎ取り、自分自身の真の本質を見出すということだ。チベット語のゾクチェン(rDzogs-chen)、すなわち<大いなる完成>とは、すべての生きものに、すべてのはじまりからそなわっている原初の境地を指しているのであって、生きもののあり方から切り離された、超越的なリアリティを指しているのではない。 p.8
ゾクチェンは、学派でも、宗派でも、宗教制度でもない。ゾクチェンとは、ラマたちが、宗派や僧院の伝統の周囲に形成されてきた制約を、すべて超えて伝えてきた、悟りの境地に他ならない。ゾクチェンのラマの中には、農民、遊牧民、貴族、僧侶、偉大な宗教的人格など、ありとあらゆる社会階層の人間がいた。その宗教的霊的出自も、すべての宗派に広がっていた。 p.15
仏教僧は、戒律を捨てずに、十分ゾクチェンを修行できる。カトリックの僧侶、事務員、労働者にしても同じだ。社会的役割を捨てることなしにゾクチェンを修行することは、まったく可能なのだ。ゾクチェンは、外側から人を変えようとしないからだ。そうではなくて、内側から目を覚まさせるのだ。ゾクチェンのラマが言うことはただ一つ。自分を観察せよ、そして教えを日常生活で実践するための認識と知恵を獲得せよ、ということだ。 p.17
ゾクチェンにおいて<悟り>というのは、鏡のような心の境地を指している。この鏡のような心の境地を<明知(リクパ)>ともいう。そこにどんな像が映し出されても、その本性が汚されることはない。みずからの真の本性を悟ったままの境地にあるのだから、何かによって条件づけられることはありえない。生じてくるものはすべて、みずからの原初の境地そのものにそなわっている特質の一部として体験される。根本的に重要なのは、相対的な条件を捨てたり、変容させたりするのではなく、その本性を知ることだ。この目的を達成するためには、自分自身をおおっている、さまざまな誤った概念や歪曲を、すべてきれいに洗い流す必要がある。 p.25
今ここにある ゾクチェンより
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『ミラレパの十万歌』より
「己をありのままに見つめることで精髄を識る
わたしは言葉あそびを超えたるものを空のごとくはっきりと見る
委ねることで、わたしは実相を見
くつろいで休むことで
すべてのものの空性を悟る
わたしは無為にして本然の境地に辿り着き
委ね、放つ。そして自覚の流れの中で
浄らかなものと不純なものは一つとなる」
「存在の究極の、あるいは真実の本性に関する限りにおいて、そこには仏陀たちも、悪魔たちもありはしない。自らを恐れと望みから、善と悪から解き放つ者こそ、混乱の空虚ないわれなき本性を悟るであろう。サンサーラ(輪廻)はそのとき、それ自身マハー・ムドラー(大印)として立ち現れるであろう」
今ここにある 自分を救う時は今
http://imakokoniaru.blog105.fc2.com/blog-entry-170.html

脳、気づき、条件づけ

「私たち〔クリシュナムルティと一人の友人〕は、
〔スイス〕のとある山の木々に覆われた険しい小路をのぼり、
ほどなく、ベンチに腰を下ろした。
突然全く予期しないまま、ある聖なる祝福が私達のところにやってきた。
もう一人の人もそれに気づいたが、私たちは何も言わなかった。
それは何度か部屋を満たしてはいたが、今度はそれは広く山腹を横切って覆い、谷にまで広がり、山を越えて広がるかに思われた。
それはいたるところにあった。
全空間は消失したかに思われた。
遠くにあるもの、広い割れ目、彼方の雪に覆われた山の頂、そしてベンチに座っている人〔彼自身〕は消え失せた。
そこには一も二も多もなく、ただ無量の広がりだけがあった。
脳はその全応答を失っていた。
それは単なる観察の器官であり、それは見ていた。
-誰か特定の人に属する脳としてではなく、時空に条件づけられていない脳として、すべての脳のエッセンスとして」
『クリシュナムルティとは誰だったのか』
アリエル・サナト コスモスライブラリーからの引用
悟りとは何か-4 – アヴァンギャルド精神世界より

ヴィパッサナー瞑想とフォーカシング

身体感覚と、その背後にあるこびりついた感情を認識するため、
フォーカシングの技法を使うこともできます。
思考や音・視覚などの知覚に対しての気づきは既にある程度確立しているのだが、身体感覚を取るのが苦手な場合には、役立つかも知れません。
『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』 アン・ワイザー コーネル
『心のメッセ-ジを聴く (講談社現代新書)』 池見 陽
リスト:体験過程理論とフォーカシング
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筋肉の緊張と感情
ケン・ウィルバーは、身体の張り、凝り、痛みをブロックと呼び、それを取ることが心と身体の分離を統一する第一歩だと述べている。
坐ってだんだんと呼吸を落としていき、身体の各部位を頭から爪先までを、意識で見ていくと、張り、凝り、痛みを感ずる部位があるこれをブロックと呼ぶ。リラックス型の冥想をする人ならば、よくご存じだと思う。セラピーの基本でもある。
ケン・ウィルバーは、敵意を抑圧(我慢)すると顎、のど、首、肩、上腕部の筋肉を締めつけることになるという。更に、次のような可能性があるとする。
1.理由のない恐怖にとらわれた時は、肩の部分が固くなっている。
2.目の周りに緊張があれば、泣きたい欲求を抑え込んでいる。
3.こめかみに凝ったような痛みがあれば、叫んだり怒鳴ったり、笑ったりするのを押さえようとして、無意識に奥歯を噛みしめているのかもしれない。
4.肩と首の凝りは抑え込まれた怒りや敵意
5.横隔膜の緊張は、気ままな感覚、注意を押さえるために、呼吸を慢性的に制限ないし、押さえている。
6.下腹部と骨盤の凝りは、性的な自覚をすべて断ち切っている。
7.脚の凝り、固さ、脱力感は、根気強さ、安定感、全般的パランスの欠如。
こうしたブロックを作りあげるには、少なくとも15年はかかっているとも言う。
さてリラックスのやり方である。
ブロックは随意筋で起きているが、無意識に緊張・収縮を繰り返してきた結果上記のような凝りになっていることから、ケン・ウィルバーは、意識的に同じ筋肉を「ゆっくりと」「緊張・収縮」させることをまず勧める。やりながら『何かを我慢しようとしていたこと』を思い出すのがコツ。次にゆっくりとその筋肉をゆるめる。そして浮かび上がる感情を感じとっていく。
そして意識的な筋肉の緊張・収縮をやり始めると、これまで我慢してきた感情が表面に現れてくるものだそうだ。これは、真面目に一生懸命やっている人に、みんなで「がんばれよ」、「よくやっているじゃないか」などと励ましまくると、当人が泣きだすのと同じ原理だそうだ。当人が意図的に抑えようとしている感情(筋肉)を刺激すると、原因となっている感情が表出するということ。
典型的な慢性のブロックがある場合は、毎日15分で1か月は続けないと効果が出ないとも言っている。(底本・無境界/ケン・ウィルバー/平河出版社)
アヴァンギャルド精神世界から
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解剖学では、胸には心臓と肺があって、お腹には胃腸や肝臓があることを教えてくれます。
でもそれだけではありません。
胸には不安や心配があり、お腹には怒りや緊張が内在していることをみんな知っています。
身体はただの「物体や形」ではありません。
目に見えないものが幾重にも重なり合って構成されているのが、私たちの身体(神体)なのです。
(ある方の文章から)

セドナメソッドと陽明学

【解放】 セドナメソッドpart5 【自由】

からの抜粋。
これを読むとやはり、セドナの「手放す」は、「受動的な気づき」のことであるように思えますね。
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感情や思考に対して「私」ができることは何もないそうです。
あるがまま(変化するがまま)に任せるのが「手放す」という意味だとか。
本来ほっとけば消えてなくなっていくそれらのものがいつまでも居座ってるのは、握りしめてるからだとか。
上手く手放せない人は「手放す」って言葉の代わりに「放っておけますか」とか「受け入れますか」とか、あるいは「認められますか」とか「愛せますか」のほうがいいかもしれませんね。これって多分全部同じ意味でしょうから。
一日中解放するって、何か特別なことをするわけじゃなくて、
自分のなかに湧いてきた感情や思考に抵抗せず、ただあるがままに任せるってこと。
日本語で手放すというと、たとえばタンスを手放すというふうに捨てに行くようなニュアンスがあるけど、let go ofというのは「離れていくに任せる」とか、「ほっておく」に近いニュアンスがあるみたい。
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陽明学で云う「良知」も、紛れもなく「受動的な気づき」のことだと、最近理解しています。