ゾクチェン

ゾクチェン – Wikipedia
ゾクチェン入門 (その1) 中沢 新一
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『ゾクチェンの教え』 ナムカイ・ノルブ・リンポチェ著からの抜粋
ゾクチェンの教えは哲学ではないし、宗教の教義でも、文化的伝統でもない。教えの意味を理解するというのは、心が作りだす自己欺瞞や歪曲をはぎ取り、自分自身の真の本質を見出すということだ。チベット語のゾクチェン(rDzogs-chen)、すなわち<大いなる完成>とは、すべての生きものに、すべてのはじまりからそなわっている原初の境地を指しているのであって、生きもののあり方から切り離された、超越的なリアリティを指しているのではない。 p.8
ゾクチェンは、学派でも、宗派でも、宗教制度でもない。ゾクチェンとは、ラマたちが、宗派や僧院の伝統の周囲に形成されてきた制約を、すべて超えて伝えてきた、悟りの境地に他ならない。ゾクチェンのラマの中には、農民、遊牧民、貴族、僧侶、偉大な宗教的人格など、ありとあらゆる社会階層の人間がいた。その宗教的霊的出自も、すべての宗派に広がっていた。 p.15
仏教僧は、戒律を捨てずに、十分ゾクチェンを修行できる。カトリックの僧侶、事務員、労働者にしても同じだ。社会的役割を捨てることなしにゾクチェンを修行することは、まったく可能なのだ。ゾクチェンは、外側から人を変えようとしないからだ。そうではなくて、内側から目を覚まさせるのだ。ゾクチェンのラマが言うことはただ一つ。自分を観察せよ、そして教えを日常生活で実践するための認識と知恵を獲得せよ、ということだ。 p.17
ゾクチェンにおいて<悟り>というのは、鏡のような心の境地を指している。この鏡のような心の境地を<明知(リクパ)>ともいう。そこにどんな像が映し出されても、その本性が汚されることはない。みずからの真の本性を悟ったままの境地にあるのだから、何かによって条件づけられることはありえない。生じてくるものはすべて、みずからの原初の境地そのものにそなわっている特質の一部として体験される。根本的に重要なのは、相対的な条件を捨てたり、変容させたりするのではなく、その本性を知ることだ。この目的を達成するためには、自分自身をおおっている、さまざまな誤った概念や歪曲を、すべてきれいに洗い流す必要がある。 p.25
今ここにある ゾクチェンより
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『ミラレパの十万歌』より
「己をありのままに見つめることで精髄を識る
わたしは言葉あそびを超えたるものを空のごとくはっきりと見る
委ねることで、わたしは実相を見
くつろいで休むことで
すべてのものの空性を悟る
わたしは無為にして本然の境地に辿り着き
委ね、放つ。そして自覚の流れの中で
浄らかなものと不純なものは一つとなる」
「存在の究極の、あるいは真実の本性に関する限りにおいて、そこには仏陀たちも、悪魔たちもありはしない。自らを恐れと望みから、善と悪から解き放つ者こそ、混乱の空虚ないわれなき本性を悟るであろう。サンサーラ(輪廻)はそのとき、それ自身マハー・ムドラー(大印)として立ち現れるであろう」
今ここにある 自分を救う時は今
http://imakokoniaru.blog105.fc2.com/blog-entry-170.html

脳、気づき、条件づけ

「私たち〔クリシュナムルティと一人の友人〕は、
〔スイス〕のとある山の木々に覆われた険しい小路をのぼり、
ほどなく、ベンチに腰を下ろした。
突然全く予期しないまま、ある聖なる祝福が私達のところにやってきた。
もう一人の人もそれに気づいたが、私たちは何も言わなかった。
それは何度か部屋を満たしてはいたが、今度はそれは広く山腹を横切って覆い、谷にまで広がり、山を越えて広がるかに思われた。
それはいたるところにあった。
全空間は消失したかに思われた。
遠くにあるもの、広い割れ目、彼方の雪に覆われた山の頂、そしてベンチに座っている人〔彼自身〕は消え失せた。
そこには一も二も多もなく、ただ無量の広がりだけがあった。
脳はその全応答を失っていた。
それは単なる観察の器官であり、それは見ていた。
-誰か特定の人に属する脳としてではなく、時空に条件づけられていない脳として、すべての脳のエッセンスとして」
『クリシュナムルティとは誰だったのか』
アリエル・サナト コスモスライブラリーからの引用
悟りとは何か-4 – アヴァンギャルド精神世界より

ヴィパッサナー瞑想とフォーカシング

身体感覚と、その背後にあるこびりついた感情を認識するため、
フォーカシングの技法を使うこともできます。
思考や音・視覚などの知覚に対しての気づきは既にある程度確立しているのだが、身体感覚を取るのが苦手な場合には、役立つかも知れません。
『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方』 アン・ワイザー コーネル
『心のメッセ-ジを聴く (講談社現代新書)』 池見 陽
リスト:体験過程理論とフォーカシング
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筋肉の緊張と感情
ケン・ウィルバーは、身体の張り、凝り、痛みをブロックと呼び、それを取ることが心と身体の分離を統一する第一歩だと述べている。
坐ってだんだんと呼吸を落としていき、身体の各部位を頭から爪先までを、意識で見ていくと、張り、凝り、痛みを感ずる部位があるこれをブロックと呼ぶ。リラックス型の冥想をする人ならば、よくご存じだと思う。セラピーの基本でもある。
ケン・ウィルバーは、敵意を抑圧(我慢)すると顎、のど、首、肩、上腕部の筋肉を締めつけることになるという。更に、次のような可能性があるとする。
1.理由のない恐怖にとらわれた時は、肩の部分が固くなっている。
2.目の周りに緊張があれば、泣きたい欲求を抑え込んでいる。
3.こめかみに凝ったような痛みがあれば、叫んだり怒鳴ったり、笑ったりするのを押さえようとして、無意識に奥歯を噛みしめているのかもしれない。
4.肩と首の凝りは抑え込まれた怒りや敵意
5.横隔膜の緊張は、気ままな感覚、注意を押さえるために、呼吸を慢性的に制限ないし、押さえている。
6.下腹部と骨盤の凝りは、性的な自覚をすべて断ち切っている。
7.脚の凝り、固さ、脱力感は、根気強さ、安定感、全般的パランスの欠如。
こうしたブロックを作りあげるには、少なくとも15年はかかっているとも言う。
さてリラックスのやり方である。
ブロックは随意筋で起きているが、無意識に緊張・収縮を繰り返してきた結果上記のような凝りになっていることから、ケン・ウィルバーは、意識的に同じ筋肉を「ゆっくりと」「緊張・収縮」させることをまず勧める。やりながら『何かを我慢しようとしていたこと』を思い出すのがコツ。次にゆっくりとその筋肉をゆるめる。そして浮かび上がる感情を感じとっていく。
そして意識的な筋肉の緊張・収縮をやり始めると、これまで我慢してきた感情が表面に現れてくるものだそうだ。これは、真面目に一生懸命やっている人に、みんなで「がんばれよ」、「よくやっているじゃないか」などと励ましまくると、当人が泣きだすのと同じ原理だそうだ。当人が意図的に抑えようとしている感情(筋肉)を刺激すると、原因となっている感情が表出するということ。
典型的な慢性のブロックがある場合は、毎日15分で1か月は続けないと効果が出ないとも言っている。(底本・無境界/ケン・ウィルバー/平河出版社)
アヴァンギャルド精神世界から
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解剖学では、胸には心臓と肺があって、お腹には胃腸や肝臓があることを教えてくれます。
でもそれだけではありません。
胸には不安や心配があり、お腹には怒りや緊張が内在していることをみんな知っています。
身体はただの「物体や形」ではありません。
目に見えないものが幾重にも重なり合って構成されているのが、私たちの身体(神体)なのです。
(ある方の文章から)

セドナメソッドと陽明学

【解放】 セドナメソッドpart5 【自由】

からの抜粋。
これを読むとやはり、セドナの「手放す」は、「受動的な気づき」のことであるように思えますね。
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感情や思考に対して「私」ができることは何もないそうです。
あるがまま(変化するがまま)に任せるのが「手放す」という意味だとか。
本来ほっとけば消えてなくなっていくそれらのものがいつまでも居座ってるのは、握りしめてるからだとか。
上手く手放せない人は「手放す」って言葉の代わりに「放っておけますか」とか「受け入れますか」とか、あるいは「認められますか」とか「愛せますか」のほうがいいかもしれませんね。これって多分全部同じ意味でしょうから。
一日中解放するって、何か特別なことをするわけじゃなくて、
自分のなかに湧いてきた感情や思考に抵抗せず、ただあるがままに任せるってこと。
日本語で手放すというと、たとえばタンスを手放すというふうに捨てに行くようなニュアンスがあるけど、let go ofというのは「離れていくに任せる」とか、「ほっておく」に近いニュアンスがあるみたい。
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陽明学で云う「良知」も、紛れもなく「受動的な気づき」のことだと、最近理解しています。

無門関

禅宗に「無門関」と云う言葉があります。
門の無い関門、存在しない関所。
それは宇宙全体と同じサイズをした門であり、
宇宙大の外縁のない大鏡であり、
地獄の真っ只中に存在する天国への扉であります。

大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。

そこを通り抜けない限り自由はありません。
「このままでいい」「このままで悟っている」とは言えません。

そして扉は、常に/既に開いています。

内なる井戸を掘る

いま私たちに必要なのは、自身の内なる井戸を掘るための具体的な方法論 ・マニュアルであり、あとは、それを使って実際に自らのなかの手入れされず埋もれてしまっている古井戸を掘り起こすことだけです。

その気づきによる井戸を自身の意識の中核に打ち抜いたとき、
私たちは、すべての井戸が根っこのところは同じ一つで、繋がっており、常に同じ水が湧いていたのだ、と理解します。

ただ、それぞれの井戸によって、地質の違いとか、汲み取りポンプの錆の味とか、
手入れを怠っての苔の味とか、色々味が変わる要因を持っていただけなのだと。