禅宗に「無門関」と云う言葉があります。
門の無い関門、存在しない関所。
それは宇宙全体と同じサイズをした門であり、
宇宙大の外縁のない大鏡であり、
地獄の真っ只中に存在する天国への扉であります。
大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。
そこを通り抜けない限り自由はありません。
「このままでいい」「このままで悟っている」とは言えません。
そして扉は、常に/既に開いています。
禅宗に「無門関」と云う言葉があります。
門の無い関門、存在しない関所。
それは宇宙全体と同じサイズをした門であり、
宇宙大の外縁のない大鏡であり、
地獄の真っ只中に存在する天国への扉であります。
大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。
そこを通り抜けない限り自由はありません。
「このままでいい」「このままで悟っている」とは言えません。
そして扉は、常に/既に開いています。
いま私たちに必要なのは、自身の内なる井戸を掘るための具体的な方法論 ・マニュアルであり、あとは、それを使って実際に自らのなかの手入れされず埋もれてしまっている古井戸を掘り起こすことだけです。
その気づきによる井戸を自身の意識の中核に打ち抜いたとき、
私たちは、すべての井戸が根っこのところは同じ一つで、繋がっており、常に同じ水が湧いていたのだ、と理解します。
ただ、それぞれの井戸によって、地質の違いとか、汲み取りポンプの錆の味とか、
手入れを怠っての苔の味とか、色々味が変わる要因を持っていただけなのだと。
アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?
わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。
完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし如来は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。
如来は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。
アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、如来が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
(中略)
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
—–
しからばアーナンダよ,比丘たちはわたしに何を待望しているというのであるか.わたしは,内もなく外もなく,ことごとく法を説いてきた.アーナンダよ,如来の法には,あるものを弟子に隠すというがごとき,教師の握りしめる秘密はないのである.まことにアーナンダよ,あるいは<わたしは比丘サンガを導こう>とか<比丘サンガはわたしを頼っている>とか,そのように思っている者ならば,最後にあたって,比丘サンガについて何事かを語らねばならぬやも知れぬ.だが,アーナンダよ,如来は<わたしは比丘サンガを導こう>とか<比丘サンガはわたしを頼っている>とも思っていない...さればアーナンダよ,なんじらは,ここに自らを灯明とし,自らを依所として,他人を依所とせず,法を灯明とし,法を依所として,他を依所とせずして住するがよい.
(マハーパリニッバーナ・スッタ)
—–
アーナンダよ、如来の教法には、教師の握拳(弟子に秘すべき奥義)は無いのである。(ブッダ最後の教え)
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ブッダの嘘と方便 -スピリチュアル寓話集
容姿に自信を持つ、人生万事絶好調の男性が、
自分の傲慢さの招いた交通事故によって、
自信の拠り所であるあるルックス(顔)を失う。
そこから色々なことを学ぶ…
あらすじを言えば、このような話です。
脚本、音楽、映像など、全ての完成度の高さ、
何度見直しても発見がある伏線の多さなど、色褪せない映画です。
この映画全体を一つの内観研修の風景と見ることもできます。
オススメです。
平等の上での差別、差別なき平等
真空と妙用(妙なるハタラキ)
美の音・禅の音 – 思考の部屋
Amazonの『ポケットの中のダイヤモンド』ページの「homu13さん」レビューから
ガンガジの本からの引用部分。
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あなたの本当の姿、それは意識です。
感情でも思考でもありません。
これらは現れては消える覆いに過ぎません。
誕生し、しばらく存在し、そして死んでいきます。
意識は現れも消えもしません。
それは今ここにあります、それは今以外の時を知りません。
大人になるにつれ、私たちの知性は、「もし心を開いても安全なときがあるとしたら、それはいつなのか」を知るために充分な情報を集めようと一種の警戒過剰状態を生み出します。
あなたの知性に情報を集めさせるのをやめさせましょう。
条件づけられた思考は、更にその条件を強めます。
あなたの知性をただその源に抱かせてあげましょう。
あなたの自己定義は、あなた自身ではありません。
それはただの思考です。
あなたの真実は思考されることはありません。
なぜならそれは思考の源だからです。
それはあまりにもあなたに近いところにあるので、
それが自分であるとあなたは信じられないのです。
真実を知りたい、という願望は、どうすれば真実を得られるか、そのための障害物を排除できるかという頭の中の概念に変化しがちです。
そして人は真実そのものよりもこの概念を崇拝し、信頼するのです。
真実についての理性による最新の解釈に頼る、堂々巡りの習慣と共に。
実は、あなたがネガティブな感情を本当に経験すると、それは消えてしまいます。
恐れ、怒り、悲しみ、絶望に対してあなたが本気で「いらっしゃい」と言い、
そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることはできません。
なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語ってはいないからです。
恐れ、怒り、悲しみは、物語とつながっていなければ存在できないのです。
もしもあなたが心の底から真実や神を求めるならば、あなたはそれらが既にここにあることに気づくはずです。
それに気づかないのは条件付きでそれを求めているからなのです。
本当の自分でありたいけれど、それはあくまで自分の望むように、条件に従った形で…と考えているのではありませんか? 既にある、悟りについてのイメージを捨てましょう。
人は傷つくことが多々あります。
どれくらい「傷つきたいか」ではなく、どれくらい「傷ついてもいい」と思うか。
それはあなたがどれくらい愛から学ぶ意志があるか意味します。
愛はあなたの教師です。
あなたが傷つく原因はあなたが愛しているという事実です。
愛があなたを傷つけるなら、徹底的にズタズタに傷つきなさい。
真っ二つに引き裂かれた心から、もっと深い愛が姿を現すように。
愛にその身を委ねるとき、愛はあなたが誰であるかを教えてくれます。