伝えたい中身と表現力

読んでいて、上手な(学びたい)言い回し・表現力だなーと感じました。
—–
「スペースまほろば」HP から
目覚めのプロセス自体は数年から十数年にわたって続く可能性がありますが、プロセスが深まり、すべては自分の内側にあると同時に、個別の実体としての自分というものは存在しないのだ、ということが十分に理解されたとき、宇宙全体があなたの教師となり、特定の教師、特定の技法は必要なくなります。
宇宙そのもの、存在そのものがあなたを導くようになります。
このセラピーはそこにたどりつくまでの道しるべのようなものだと考えていただくといいでしょう。

その深化と統合のプロセスを、一人一人のニーズに応じて、この世界の中での生活とのバランスをとりながら体験していく道を的確にサポートしていきます。

人間の存在にホリスティックに関わる技法には多くのものがあります。
どの技法が他の技法よりも特に優れている、ということはないように感じます。
ただ、その人にあった技法と、あったセラピストは存在します。
わたしは、常にわたし自身でいることで、みなさんの癒しと成長のサポートをしていきたいと考えて います。

「意識の目覚め」「悟り」といったようなちょっと大げさに聞こえる言葉も、実は、苦しみから解放されて楽になるということと同じことを表現しているのだ、ということを今回のグループで再認識したので、初心に返るような気持ちで、スペースまほろばを始めたときからの一番大きなテーマである「楽に生きる」という表現をサブタイトルにしてみました。

今を守る

自分の、いま、ここの、「この今」を(それがどんな内容のものであれ)、
そっと壊さないよう、大切に守る。
壊れやすい細工をあつかうように、そっと守り、感じ尽くす。
「嬉しい今」「かなしい今」「ムッとしてる今」「怒っている今」
それが、どんな内容の「今」であれ、
やさしく、壊さないよう、そっと見守ることによって、「いま」は花開き、
「いま」の奥にある、ホントの中身を教えてくれる。
それは、つまり、今の(怒り、苦手意識)をキチンと感じること。
胸の中の、かたまり、実感、フェルトセンスを、押し留めないで、キチンと感じる。
それが、やることのすべて。

気づきのことば

受け入れ不可能なものを受け入れることが、この世の慈悲を受けとる最高の手段なのです。

今日、あなたのまわりに起こる出来事は、これまであなたが抱いてきた思考と感情の結果であり、
明日、あなたが出会う出来事は、今日、あなたが感じ、考え、しゃべり、行ったことによって決まっていく。

人はそれを真実と認めようとしない。なぜなら認めると変わらざるをえないからだ。

ラマナ・マハリシの言葉

あるブログで読んだもの。良い言葉です。
—–
そこに目的地と、それへの道があるという観念自体が誤りである。
われわれはつねに目的地にいる。  「あるがままに」P.60
困難は、人々が自分たちが行為者であると思うこと―それは間違いなのですが―にあります。
すべてのことを行なうのは、より高次の力であり、人びとは道具にすぎないのです。
もし人びとがその立場を受け入れるならば、彼らは災難からまぬがれるでしょう。
さもないと彼らは災難を自ら招くことになります。
結果を期待しないであなたの仕事をしなさい。
それがあなたのすべきことのすべてです。
  「不滅の意識」P.14

高木悠鼓 ラメッシ・バルセカールの紹介

『人生を心から楽しむ』出版の際に、訳者の高木悠鼓さんが書かれた紹介文です。
良い文章なのですが、「ラメッシ」で検索しても見つけ難いので、ここに置いてみます。
—–
たぶん、ほとんどの読者の人は、ラメッシ・S・バルセカールという先生の名前を聞いたことはないと思うが、彼は欧米で今もっとも注目を集めるインドの賢者であり、インドの非二元論哲学アドバイタの究極の真理を普通の人が平和に日常生活を送るのに役立つように、非常にわかりやすく語る先生として有名である。
しかし、非常にわかりやすいにもかかわらず、はじめて読んだ人がすんなりと彼の教えを受け入れることはむずかしいかもしれないとも私は思っている。少なくとも私ははじめて読んだとき、ショックのあまり熱を出して寝込んだほどだった(が、経験からいって、ショックを受ける本は、たいてい自分にとってはいい本である)。何がそんなにショックだったかといえば、彼の教えの基本コンセプト、「人間には自由意志がなく、すべては神の意志に従っている」というのが、当時自分が信じていたことと正反対であったからだ。大人になってから一貫として私は、自分の自由意志、人間の自由意志を信じて生きてきたので、自分が最も大切にしてきたものを否定されたような感じがして、深い謎の迷路に落ち込んだような気分になったものだ。
それにもかかわらず、なぜかラメッシ・S・バルセカールの言葉と教えは私を魅了しとらえて離さず、過去9年間、私は読みに読み続け、また何度か直接会って、お話させていただく機会にも恵まれた。そして、はじめて読んでから9年たって、ようやく出版しようという気持ちが起り、今回の出版の実現にいたったわけである。
彼の本が他の多くのスピリチュアルな本とは全然違うのは、彼は、読者にどんな未来の希望も魂の救済も、豊かさの実現も約束しないことと、現象界で起きるどんな出来事の原因も理由も予測も語らないということだろうと思う。彼の言っていることは、要約すればただ二点のみ、「起ることはすべては神の意志である」、「よって神の意志を受け入れることに平和がある」である。と書くと何か非常に冷たい教えのように感じられるかもしれないが、それがラメッシ・バルセカールが語るように語られると、非常にやさしく温かい教えとして感じられるから不思議である。
もし読者の皆さんが、「人間には自由意志がない」とただ聞けば、それはひどく悲観的で暗い教えのように感じることであろう。しかし私の経験によれば、人間には自由意志がないということを本当に理解し、受け入れたとき、究極の自由と、罪悪感からの解放、そして許しが起るのである。もし私が何をしようが、他の誰が何をしようが、それが神(宇宙全体)の意志であるとすれば、行為の結果がどうであれ、誰のことを責めることもできない(あえて責めるとすれば、それは神が悪いということになる!)、また私が何をするにしろ結果を心配することなく、今やっていることを心から楽しむことができる。自由意志を表面的に信じていた頃より、私は今もっと自由で、自分がやりたいと思うことは何でもやっていいと感じている。つまり、日常生活においては、実際あるように見えるみかけの自由意志を私は昔よりずっと楽しんでいるということでもある。なぜなら、私がどんな瞬間に何をしたいと思っても、その思いそのものが神の意志だからだ。それ以上のどんな自由もないし、どんな喜びもない。
さて、20世紀、インドは名だたる導師や先生を生み出してきた国として有名である。ラマナ・マハリシ、クリシュナムルティ、サイババ、オショー、パパジ、ニサルガッタ・マハラジ、そして、ラメッシ・バルセカールと、西欧で名の知れた有名な先生をざっと数え上げても、これくらいはいるし、無名の人も含めれば、それこそ何千人もいることだろうと思う。その有名な先生の中でもとりわけ、私がラメッシ・バルセカールを愛するのは、彼のまったくの「普通さ」というところにある。インドの中流階級に生まれ、イギリスで教育を受け、大学卒業後は、銀行に勤め、野心的でないにもかかわらず、優秀であったため、自然に出世し、最後は頭取になり、手腕をふるう。私生活では20代のはじめに結婚し、3人の子どもの父親となり、幸福な家庭をきずくが、最愛の長男を病気で失うという悲劇も経験している。彼は、インドによくありがちな世俗を放棄したグルグルした人ではなく、また人を圧倒するカリスマ的雰囲気の持ち主でもなく、今でもよき夫、父親、祖父として家庭生活を楽しむ普通の人である。それでも87歳の今もなお衰えぬその知性の輝きは、彼に会ったすべての人たちを魅了するものであり、彼の教えと言葉には、世俗の人生を十分に生きて、その喜びも苦しみもすべてを味わい尽くし、それを乗り越えてきた人がもつやさしさと知恵に満ちている(2000年12月1日のコラム「復活!ラマナ・ハマリシ」でも、ラメッシ・バルセカールについて触れてあります)。ラメッシ流にいえば、今回出版する「人生を心から楽しむ」を読む人がいれば、それが神の意志であり、そしてまたその中の一部の人が本書を読んで何かを理解することも(理解しないことも)神の意志である。たくさん売れることは期待はしていないが、それでも私はスピリチュアルな出版社として今回の出版を非常に光栄に感じ、心から喜んでいる。