伝習録 四句教(四字教)

近所の図書館に寄ったら、廃棄本コーナーに『新釈 伝習録―現代「陽明学」入門』と云うのが置いてあって、軽い気持ちで持って帰って読んでみたら、えらく良い内容で、一気に「伝習録」に関心を持ち、調べています。これも、かなりスゴイです。
私の感覚としては、質の良い禅の話を聞いてるように感じます。
やはり名のある古典は、どれも馬鹿にできないです。
もう少し勉強してから、何か文章を書きたいと思っています。
陽明学 – Wikipedia

伝習録
私が特に感心しているのは315章なのですが、
これの現代語訳は、ネットでは見つけられていません。

私に基づいた修行と、私を明け渡す修行

強いて解脱(開放)を起こすことはできません。
それは「我」にとらわれた行為であり、自意識過剰な修行者です。
本当の瞑想は瞑想者が死んだときに始まります。
どこかに行こうとしているとき、ブッダになろうとしているとき、涅槃を得ようとしているとき、瞑想者はまだ生きています。
最初はそれが自然ではあります。
もちろん、あなたは目的を達したいのであり、そうでなければ、そもそも修行など始めたりはしません。
しかし、時を経るうちにおのずから、そのような目標も概念にすぎないのであり、かえってそれが苦しみの元となることを理解するようになります。
修行が進むにつれて、観察以外には何もないといった、対象への明け渡しが生じてきます。
  『呼吸による癒し』P.99

心の癒しと意識の目覚めのために

心の癒しと意識の目覚めのために
このブログの記事、派手ではないけど、ハッタリのない良い文章と内容だな、と思い、見ています。
誠実な、自然体な人柄を感じさせられます。
飾り無しに、等身大に自分のことを語るのは、なかなか力量が要ることだと思います。
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「その激しい怒りのエネルギーに意識を向けて、できるだけ判断しないようにしながら体全体で感じとっていくと、その激しいエネルギーが何かを燃やしていくような感覚になってきました。
怒りのエネルギーがそれ自身を燃やして浄化していくような感じでしょうか。
「意識の光を当てると、苦しみが意識そのものに変わっていく」という言葉の意味を実感しました。」

科学にとって、いちばん貴重な物

科学にとっていちばん貴重なものはなにか?
相対性理論、量子力学? いやいや、そんな一つ一つの理論をとやかく言うつもりはありません。
いちばん貴重な物は科学自身に「エラー修正機能」が組み込まれているということです。
そして似非科学と決定的に違っているのは、
本当の科学のほうが、人間の不完全さや、誤りやすさをずっと認識している点です。
むしろ「人間は間違うことを断固として認める」ぐらい積極的な機能をもっているのです。
ですから、誤りを含んだ科学と似非科学はまったく異質のものなのです。
人間というものは、絶対に確かだといえるものが欲しくてたまらないのかも知れない。
しかし、確信の誘惑を断ち切るのは難しい。
そもそも科学がいざなう先にあるのは、ありのままの世界で、こうあってほしいという願望ではない。
よく、科学は難しすぎる、複雑だと嫌われるが、科学が複雑で難しいのはたいていの場合、現実の世界が複雑だからだ。
それ故、今の時代に科学的思考は必然である。
なにも科学者になれと言うのではない。
科学的な考え方を広めることが大切なのだ。
例えそれが我々にとって、好ましくない結果(例えば、我々の祖先がサルであることを未だ拒否を示す人はゴマンといる)をもたらそうともだ。
「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」より。

ガンガジ 貴方の中に秘められた宝石

もしも、あなたにこうした感情の重なりを最後まで徹底的に経験する意思があれば、あなたは最終的には底なしの深淵に見えるところに辿り着きます。
この深淵は、無、空虚、無名と理性が認識するものです。
これは非常に重要な瞬間です。
なぜなら、完全に何ものでもなく、誰でもないことを進んで受け入れるということは、自由になることを積極的に受け入れるということだからです。
何層にも重なった様々な感情はすべて、無の経験、すなわちあなたが自分だと思っているものの死に対する防衛手段です。
いったんその防衛手段が崩れ、扉が開いてしまうと、恐れていた無と完全に向き合うことができます。
この対峙こそ真実の自己探求によってもたらせれる啓示であり、それによってあなたの心の真ん中にずっと隠されていた真実という秘密の宝石が露にされます。
見つかったダイヤモンド、それはあなたです。

ルパート・スパイラ

ルパート・スパイラのインタビュー ≪ resonanz360から

私たちの見かけ上の客観的な経験は、思考と感覚と知覚とで構成されています。それはマインド、身体、世界です。
気づき(Awareness)が考え「として現れる」とき、それは思考になったように見えます。気づきが感じるということ「として現れる」とき、それは身体になったように見えます。そして気づきが知覚ということ「として現れる」とき、それは物体、他者、世界になったように見えます。
考えがおさまったとき、その見かけ上の客観的な部分(思考の部分)は消えますが、その実体である気づきは残ります。その時を超えた瞬間(マインドがそこにないために時を超越しています)、気づきはそれ自身をありのままに味わい、それは思考という見かけ上の客観性を仲介していません。この経験は理解(Understanding)として知られています。
感じることが止まったとき、その見かけ上の客観的な部分(感覚または身体の部分)は消え去り、その実体である気づきが残り、その気づきはそれ自身を愛(Love)または幸福(Happiness)として知ります。
そして知覚することが止まったとき、物体、他者、世界は消え、それらの実体である気づきは残り、それはありのままに自身を知り、物体の見かけに曇らされることはありません。これが美(Beauty)として知られる経験です。
言い換えると、理解、愛、幸福、美は、ひとつの同じ経験、気づきの現前、自己の存在(Being)の認識につけられた異なる名前です。
理解と愛を通る道(ジニャーナとバクティの道)についてはこれまでにも沢山書かれていますが、知覚を通じての道はあまり触れられることがありません。知覚の道または美の方法が芸術家の道です。
それは、すべての知覚の実体が気づきで作られていることが明確になる道であり、それを通してそのことが表現される道です。
すべての見かけの物体は気づきからつくられているのですが、相対的なレベルでは、このことを明らかにすることが物体の機能であるとは言えません。たとえば、やかんの目的はお湯を沸かすことであり、経験の本質を明らかにすることではありません。ただ、さまざまな物体の中に一つのカテゴリーがあり、そのカテゴリーのものは経験の本質を明らかにすることを特に意図して作られたものであり、そうしたものを私たちは芸術作品と呼びます。
芸術作品の機能は、経験の本質を指し示すだけでなく、そうした性質を実際に明らかにすることです。セザンヌが言ったように、その機能は「私たちに永遠(Eternity)を経験させる」ことです。