投稿者: 霊基
人生のリセット、リプレイ
今日から、今年初めの10日間研修始まり、また昨日、研修の問い合わせが一つあり、引き続き、22日から次の研修に入ることになりそうです。
今年は、20代前半の若い方の内観研修の二連発で年を開けることになりました。
末期のターミナルケア、人生の総決算としての内観も非常に価値あるものだと考えていますが、これからの将来がある若い方たちが、人生の方向を見定めるべく内観を行なうと云うのも、非常に価値あることだと感じます。
内観は、真剣さをもって臨めば、必ずそれに答えてくれる「確実な」技法ですので、
多くの方にその機会を持って欲しいものだと思います。
話は変わって、
昨晩、突然、25年振りくらいに、中学生時代に一番仲の良かった友達からメールがあり、懐かしさに何度かメールのやり取りをしました。
ネットをしていて、たまたま私のサイトに眼が止まったと云うことらしいですが、彼の方は、郷里の広島で結婚し、二人の子供の親父をやっているそうで、二十五年の時間の長さ・速さに、何とも言えない感慨が湧きました。
思うに、
「平凡な人生」を生きている人なんて、誰一人居らず、
それが自分には慣れた事、慣れた暮らしだから平凡だと錯覚するだけで、
それぞれの人が、それぞれの人生の成り行きで、それぞれの展開を(選べない形で)選び、
そのなかで、そうあるしかないかたちで、命を燃やして(あるいは淡々と、あるいはウンザリしながら)生きているのだろうな、と、先日、何年か振りに再読した本、『リプレイ』も影響して、そんなことを考えました。
この本は、擬似「内観研修体験」を引き起こしまして、なかなか面白いです。
集中内観研修に興味があられる方、ぜひ読んでみてください。
勿論、良い小説の常として、私のとは全く違う読み方も許す作りになっています。
小説としてはかなりの出来映えだと思います。
天命に安んじて人事を尽くす
「人事を尽くして天命を待つ」という自力の心を、
清沢満之師は「天命に安んじて人事を尽くす」と言い換えたという。
今を生ききれない人間が未来に生きることはできない。
死を前提にして今を生ききる。
自らの煩悩と無力さを知った時に、人事を尽くすことができる
気づきの言葉
我々は尋ねる、
「如何にして自己中心はなくなるのか? そのために私はいったい何をすればよいのか? どんな修養、どんな犠牲、どんな大それた努力をしなければならないのか?」と。
しかし、そういった意味で我々にできることは何一つない。
ただ自己中心な心の動きを無選択に観察するだけだ。
それも観察者としてではなく、ただ選択者なしに観察するのである。
すると、あなたは言うかもしれない、
「そんな事は私にはできない。私は常に過去に囚われた目でしか物事を見られない」と。
それなら、過去に囚われた目でしか物事を見られないという事実を自覚し、それに留まりなさい。
『クリシュナムルティ・水晶の革命家』高岡光 p11-12より
空虚感や孤独は、自己中心的な活動をする <私> という心によって作り出されたものなのです。
ですから、その心が中心を持たずに見つめる時、自己中心的な活動は終わります。そこに淋しさはありません。
そのとき心は自由自在に働きます。執着と無関心の全構造、苦痛と快楽の運動を見つめるとき、どのようにして、<私>という心がひとりで砂漠を作り出し、また、ひとりでそこから逃げようとしているかが解ります。
<私>という心が静まるとき、砂漠も逃避も消え去るのです。
この古いもの、結晶化したものの粉砕は、一日で果たせるものではありません。絶え間ない、無選択の気づきがなければならないのです。
『クリシュナムルティの生と死』 p148より
あなたは自我を解放できない。
あなた自身がこの不幸の根源である以上、<自我>を滅する方法を求めていては、
他ならぬ自我の滅却過程で、あなたは別の<自我>を作り上げてしまうであろう。
『クリシュナムルティの瞑想録』p47より
希望(欲望)と絶望
今年は屋久島も雪のお正月で外仕事ができず、
久しぶりにゆっくりと休んで、パソコン内の整理などしております。
あまりお正月と云う気もしないのですが、
明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いいたします。
今年は、研修所サイトの文章つくりに本腰入れたいと思っております。
整理していた資料の中に、少林窟道場時代の先輩の幽雪さんの書いた『アンチ菩提心論』と云う文章が出てきたのですが、その末尾の「絶望論」と云うのに眼が留まりましたので紹介してみます。
この文章は、かって幽雪さんのサイトに置かれていましたが、
いまはどうも削除されているみたいです。
全文アップはおそらく喜ばれないと思うので最後の部分だけ載せます。
◆ 絶望
最後は、これだ。
過去を引きずり、未来を当てにしていたら、
どうして、今、ここに落ち着くことが出来るだろうか。
今、ここに落ち着いていないで、どうして修行になるだろうか。
過去に自分が得た心境やら成した業績など何の役にも立たない。
そんなものは人の記憶の中で印象として残っているに過ぎない。
しかし、それにすがろうとしてしまう。
そこに自分の存在価値を認めようとする。
過去で自分を守ろうとする。
泡をかき寄せて、自分の周りに積み上げることで、
城壁を築こうとしているかのようだ。
しかし、今、単でなければ、単ではないのだ。
過去に単であったことは、もう存在しない。
未来に悟ることを期待することは、人を簡単に迷わせる。
何かちょっとした事で、パッと悟るのではないか、と思ってしまう。
徹した時に見性する、と聞けば、
何かそんな事件が起きるのではないかと思ってしまう。
未来に期待する思いが、そっと忍び込む。
未来の時点に特別な時を設定してしまう。
未来の悟りと、悟っていない今が峻別される。
今は、これから悟る今となり、悟っていない今となる。
悟っていない今に落ち着ける訳が無い。
今が、抜ける。
自己の内を見詰めてみれば、
そこには確かなものなど何も無く、
愚かで、小さな私が、恐怖におののいて、
過去にすがり、未来に期待しようとしているに過ぎない。
私は、それだけのものだ。
そんな私に悟りは、無い。
私に悟りはあり得ないのだ、と絶望した時、
悟りからの解放があり得る。
悟っていなくてもいいんだ。
もう悟らなくてもいいんだ。
過去にすがることもなく、未来に期待する何ものもない。
全てを失った者には、今だけが残る。
果てし無く、今だけが在る。
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注)文中、「単」とは、「ものと自分がひとつになっていること、その状態」のこと、いわゆる一枚になっている状態のこと、です。
「生きていること」と「勉強・学習」
近くの図書館に寄った折に、たまたま手にして、軽い読み物として借りてみた本なのですが、昨日パラパラ読んでいて、面白いなと思う一節があったので紹介してみます。
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「伝統的な未開社会には学校はなかった。
躾、労働、教育は分離せず、生きる場がそのまま教育の場となってきた。
長い人類史の中で学校がなくて困ったと云う話は聞かない。
むしろ、学校ができたことで、学習と労働とが分離したために、労働とは無関連の純粋な学習が生じた。
目的も見えないままに、とにかく何かを学ぶという空っぽのシステムが誕生したのだ。
この純粋培養された「学習」を維持するために作り出された素晴らしい発明品がある。
子供たちをある種のゲームに駆り立てる試験制度という複雑な社会制度だ。
この試験制度に適応するために、とりわけ日本の教育で重視されるのがIQだ。
だが、ニューギニアの原住民からも分かるように、人類が生き延びるために育んできたのは、意欲・計画性・想像力といった能力で、IQは、その基礎条件にはなるが、能力の高さ自体はIQとは無関係なことが分かっている。」
『自給再考』(農文協)から「ポスト石油時代の食料自給を考える―人類史の視点から」吉田太郎