セドナメソッド – リリース・テクニック

自分にとって不快な、好ましくない感覚・感情・状況に「気づくこと」

その「気づき」が、即「受容し、受け入れること」であり、また「手放し、放ち、流し、捨てること」である。

「全面的な受け入れ wellcome」を伴った「気づき」でもって、その対象を、見つめ、合流し、経験していくこと。

また、その根底にある、更に深い「感情、欲求」も、同じく辿り、「気づき=受け入れ=放す」こと。

「全面的な受け入れ・受容・受苦・体験」が、即、そのまま「手放すこと」であり、「流すこと、流れていくこと」である。

瞬間瞬間の「気づき」の一瞥、一触れの中に、これらのすべてが含まれる。

凡人には凡人なりの実践と進歩、展開があり、ささやかな理解と開放、喜びがある。
それは恥じることではなく、静かに味わうべきものである。
どれほど遅々とした歩みであろうと、やっただけの変化はあり、心は楽になり、苦しみは減る。

……

『人生を変える一番シンプルな方法―世界のリーダーたちが実践するセドナメソッド』

[mixi] セドナ・メソッド

読まずに死ぬのは惜しい漫画 『子連れ狼』

出だしの一巻あたりは、まだ絵もキャラクター設定も定まっておらず、ストーリーの深みも感じられません。
(時代劇版、子連れのゴルゴ13といった感じです)

それが、ある程度進んでいくと、画・話ともに深みを増し、別物になってきます。
6巻~19巻あたりまでが、最も上質な部分かも知れません。
人間存在の切なさ、業、感情表現の深さなど、「日本漫画の至宝」の一つと言ってよい素晴らしい内容だと思います。
読んでて、かなり感心させられました。

『代替医療のトリック』 サイモン・シン

『代替医療のトリック』 サイモン・シン

さすがにサイモン・シン。
導入から読み手の引き込み方が上手く「代替医療の批判的検証」という地味なテーマを扱っても、一気に読み進められる誘引力があります。

読んでいて、ドーキンスの『神は妄想である』を連想しました。こちらも一気に読ませる本でした。

代替医療のトリック(ブックレビュー)

レビューから

この書物の本質は、「効果があるかどうかは、いかなる分野であれ、無作為化二重盲検試験を行い、客観的に評価されるべきである」ということです。
治療法や薬が真に効果があるかどうかを客観的に評価できる現在人類が持っている方法は、「無作為化二重盲検試験」です。
批判する場合も、評価する場合もこの検査について本質的に考察するべきで、
多くの書評にあるような文学的な批評はナンセンスです。
医学における、「無作為化二重盲検試験」は現在究極の評価法であり、その結果でもって効果があるかどうかを評価すべきであり、その根本を受け入れないならば、医学や科学以前の、魔術や錬金術と同じ時代のレベルに退行することを厳密に受け止めるべきでしょう。

二重盲検法 – Wikipedia

ホメオパシーは「効果が確かめられていない」方法ですらない – Skepticism is beautiful

ホメオパシーFAQ – Skepticism is beautiful

カルトにだまされないための必須知識2 「二重盲検法」=「二重盲検試験」=「ダブルブラインドテスト」

ジャズ&オーディオ通信
(from USA):オーディオと二重盲検法

最後の「オーディオと二重盲検法」は、なかなか面白い記事でした。

怒りは恩恵を隠している

貴方が、何かほんの些細なことでパートナーに対して怒りを爆発させてしまった後で、実はそのとき、相手は惜しみない愛を貴方に与えようとしていただけだった、と云う(誤解の)経験をされたことはないでしょうか。
私たちが、自分の気にさわる相手の言動をあげつらって怒り、責めるとき、自分ひとりで勝手に怒りを選択し、喜びを感じる機会を逃しています。
自分についての気づきを深めていけば、「怒りを選ぶか、愛を受け取るか」の選択が、どの瞬間にもできることが分かるでしょう。
怒りは、自己正当化、裁き、判断があるとき生まれます。
怒りと云う生理的な反応の持続時間は、実はわずか数分ほどです。
それを長く引きずっているのは、私たちの瞬間瞬間の(継続させることの)選択によります。
あらゆる怒りの場面には、気づきと恩恵の機会が隠されています。

自然はそんなにヤワじゃない

『自然はそんなにヤワじゃない―誤解だらけの生態系』

この本、図書館の棚に並んでいたので、なんとなく借りてみたのですが、面白かったです。
生物多様性の保全、環境問題などに関わる内容です。
読書の楽しみとは、新たな知識を更に増やす(上に積む)ことにではなく、
「信じている」とすら自覚していないほど自分にとって当たり前であった「知っていること ・ 自明のこと」があっさりと崩され、「知らなかったこと」に変貌する、「新たな仕方で見える」(ダルマ落としのように、重なって安定しているものをゴソッと抜かれる)、そこに読書の楽しみがあるのでしょう。
これは内観 ・ 瞑想など含め、生における体験全般に言えることで、プラスではなくてマイナスの、引き算の体験、そして認識の転換の体験に、ある程度の年齢がいってから先の、生きてることの楽しみ ・ 快感があるのでしょう。

書評「自然はそんなにヤワじゃない」: 森林ジャーナリストの「思いつき」ブログ

文明論として、この本も連想しました。
『銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎』

その他、関連しそうなもの

『害虫の誕生―虫からみた日本史』 (ちくま新書)

『「自然との共生」というウソ』

KOSMOSの覚書

先ほど調べ物をしていて、たまたま見つけたのですが、こちらのブログ、なかなか面白いです。
趣味が私に似ています。

KOSUMOSUの覚書/ウェブリブログ

印象的だった文章。

それに悲しみには、幸福感の中には絶対ありえないような一種の深さがある。
幸福感の中には何か浅いものがある。
笑いはきまって浅薄な感じがする。
涙は常に深い感じだ。
もしあなたがいつも幸福でありたかったら、あなたは浅い人間に、表面的な人間になるだろう。
ときには、悲しみの深みに、暗い深み、陰うつな深淵に落ちることも善いことなのだ。
両方とも善い。
そして人は、この両方の内に全面的に在るべきだ。
何が起ころうとも、その中に充全に入っていきなさい。
泣くときには、泣くことそのものになるがいい、踊るときには踊りそのものになるがいい。
そうなったら究極なるものがあなたに起こる。

もしあなたが、あなたに起こることすべてに対して証人であることができたなら、そのときにはあなたは家(ホーム)に戻ったということだ。

これはOSHOの言葉だそうです。

ケン・ウィルバー – Wikipedia