生まれつき憂鬱な赤ん坊は居ない

生まれながら憂鬱な赤ん坊は、まだ見たことがありません。
否定的な思考は、最初から持ったものではないのです。
思考パターンは学習して獲得したものです。
学習したものならば、それとは違う色々なパターンも同じように学習して獲得することが可能でしょう。
もちろん、思考パターンもスキルなので、変えるためには地道な練習が必要です。それなりの時間も掛かるでしょう。
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認知療法:行動療法:論理療法14 -質問回答歓迎-
 の投稿56より。

「現実」と云う煉獄

本で読み学んだ知識、考えて得た理解―それらは、「現実」と云う生の現場で、日々の人との交わりの中で、試され、磨かれる。
血肉化するかどうかは、どれだけ真摯に、その指摘 ・ 衝撃 ・ 苦しみを受け止められるかに掛かっており、自己正当化 ・ 自己防衛心から懺悔への転身が必要である。

……

極楽は地獄を通らなければ到達できないものであることを忘れてはいけない。
地獄あっての極楽なのである。
地獄の業火に焼かれて、心身共にこなごなになったとき、極楽の扉は開き始めるであろう。

……

西瓜は切ってみなければ、その良し悪しは分からない。
人も真っ向唐竹割りに斬られてみて、初めてその真価が現れる。

……

事上練磨―。世間の冷徹な現実が、時として私たちの頭上に加える一撃は、痛烈無比なる教育である。

……

自分に対して悪声を放つ者があれば、それは間違いなくわが良師である。
素直に、その言うところを聞くがいい。
謙虚に己を反省し尽くした上で、尚、彼の言うところが自分に当てはまらない場合は、彼のファウルを気の毒だと思えば良い。
だが、たいていの場合は、ぴたりと自分の過誤や欠点が指摘されているものである。
良い勉強をさせてもらったと思って、「授業料」を呈すべきである。

……

通身徹骨、己の至らなさと過ちとを思い知ること― すべてはここから始まる。
己を良しとしている限り、人間関係は決して好転しない。
そして、心の安らぎがなく、常に修羅の巷をさまようている。

『上村秀雄 歩むもの』から

地下鉄サリン事件の記憶

当時、私は福井県に住んでおり、あの朝、何か月か振りに東京に出る用事があり、高速バスにて、早朝浜松駅着。
品川から新宿、丸の内線で中野新橋駅を7時前に下車。
知人宅でしばらく仮眠を取って、9時前に再び中野新橋駅に行くと、なぜか入り口にロープが張ってあり、入れず。
仕方無しに中野坂上駅まで歩いて丸の内線に乗り、霞ヶ関駅を通過(電車は停止せず、駅構内では、駅員さんが何か慌てて作業していました)。
そして確か本郷3丁目で降りて、東大そばの仏教専門書店に寄ったら、本屋のおじさんがテレビ見ながら「なんか、大変だなー」と言っているので、「一体、何があったんですか?」と尋ねると、「いやー、よく分からないけど、異臭騒ぎがあったみたいだよー」との答え。
「ふ~ん」位しか、そのときは思わず。
夜になって、事の大きさを知りました。
あのとき、もし1時間ずれていたら、私の人生も全く違ったものであったかも知れないな、と云う思いと、もう15年が経ってしまったか、と云う思い。
また、加害者・被害者、事に関わった多くの人たちの、そこまでと、その時と、その後と、また「宗教という問題」と、様々なことを考えながら、この、良くできていると思われる映像作品(→リンク先から削除されました)を見ていました。

『奇跡の脳:脳科学者の脳が壊れたとき』

図書館に寄った折に新刊の棚に並べてあったので、深く考えずに借りましたが、目を通してみると、私の普段やっているボディワークやヴィパッサナー、反応系などの実践と深く関わる内容を持った本でした。(特に、14章~18章の辺り)
脳卒中を、患者の側から記録したものとしてもオススメの本です。


『奇跡の脳』
ジル・ボルト・テイラー

神経解剖学者のジル博士が語る脳機能不全時の体験談。
ある朝、彼女は重度の脳梗塞に襲われます。脳の機能が失われて行く中、彼女が体験しその中から学んだものとは?

嫉妬と支配欲、愛

主に男女間において、相手に対する「愛情」と「嫉妬」は相伴う関係にあることが殆どである。
「情が深い」人柄ほど「嫉妬」も強烈で、あることを切っ掛けに、疑い、さびしさ、傷つけられたとの思いが暴走し、そのことで却って相手の心を萎えさせ、冷めさせてしまう。これは、嫉妬するのが男性の側の場合でも、女性の側の場合でも、構造は全く同じである。
嫉妬を伴わない、嫉妬を相方としない愛、情の深さ、相手に対する思いの深さはあるのか。
支配欲、相手をコントロールしたい欲求に、自身が支配されない形での相手への思いやりはあるのか。
嫉妬と支配欲の二つが心に起こることが「相手を好きである証拠・愛している証拠」とされているのが現状であり、その先は、なかなか見えない。
これは、師匠と弟子、先生と生徒、教団と信者との間でも、まったく同じことが頻繁に起こる、自我固有の問題である。
嫉妬を伴わない愛、相手に対する支配欲を伴わない愛はあるのだろうか。

修行者のインターネット利用作法

パソコンが、常時、アンチウイィルスソフトによって監視されていないと危ないように、私たちの心もまた、「気づき」と云う「アンチ煩悩ソフト」によって監視されていないと、危ない。
新しい対象の下調べをし、買い物ボタンをポチッと押すとき、掲示板で議論するとき、新しいニュースに、とりあえず目を通すとき―
常に、自分の心の動きの動機・本当のところを監視する、引いた目線を持てない限り、インターネットは、果てしの無い自分自身からの逃避の舞台、あるいは危険な遊技場となりかねない。
そして、また、怒り、自惚れ、承認欲求などのウィルスを、気づかぬうちに自分が世間にばら撒き、汚染することにも繋がるだろう。
絶え間なき気づき、絶え間なき注視・監視が必要である。
それを実践するとき、ネット接続は(仕事を持ち、社会の中で暮らす我々にとって)、自己の本性を見るための(心随観の)修行の最高の現場となり得るかも知れない。

人の話を聞く(読む)とき

他人の言葉を読むときには、過去のその人の言動の一貫性や、印象(自分の中にできている、その人のイメージ)と切り離して、「その一言が、今の自分にとって価値あるものか、学びをもたらすものかどうか」だけを見て、その言葉に学ぶこと。
最低の(と思っている)人格が、最高の言葉(活句)を吐いたなら、その言葉だけを受け取ること。
あたかも、最高のグル・師が、自分のために、その言葉を与えてくれたかのように。
常に、人の言葉の、最高の部分だけを見ること、受領すること
「その言だけを見て、その人を見ず」
だれがその発言をしているかを見るのではなく、
ぶつ切れの、その一言一言だけを完結したものとして見る。

自分が話をする(書く)とき

自分が掲示板などで、書き込み・発言をするときは、その言わんとする内容の良し悪しではなく(勿論、書き込みするならば、その内容は、嘘がなく、正しく、多くの方の利益となる最善のものでなければならない)、その書き込みをするにあたって働いている「自分の心の動機・自分を動かしている衝動・欲求」に注意深くあること。
どんな良いことを書いたとしても、それを書いている動機が、自己顕示欲であったり、怒り、腹立ちであったならば、その「善言」は汚染されており、良い結果には繋がらない。
常に、裏に働いている自分の動機を見据えながら、やり取りをすること。
また、何らかの発言をする時は、「この書き込みを、本名で、住所、職業、自分の立場を表示した上で書いたとしても、自分は、この通りのことを書くだろうか?」と自問してから書くと良い。
匿名性の裏に、自分の卑怯で卑劣な心が働いてないか見る。