羽根の動きが、とても綺麗です。
投稿者: 霊基
鹿
他者、対話
他者との対話の目的とは、<自己異化>と<相互異化>を通じて、既存の「合理性」に裂け目を生じさせ、新たな<差異>を生じさせること、あるいは多元的な合理性が交錯する<場>を開くこと、それ自体にある。
その意味で、対話とは「相互批判」を通じて自己を写し出す<鏡>に他ならない。
いわば、我々は「終わりなき対話」のなかを生きているのであり、また、そのことを課せられた存在なのである。
無我表現研究会
無我表現研究会
こちらのサイト、本日(さきほど)、初めて存在を知り、記事を少しずつ読み進めているのですが、非常に面白い(良い)、と感じています。
この代表者の方が『悟り系で行こう!』なら、私の方は『気づき系で行こう!』ですね。
……
たとえば、これら。 面白いです。
自己浄化の方法と心身脱落について
ダンテス・ダイジ論
クリシュナムルティ論
気づきの言葉
マハトマ・ガンジーが素晴らしいことを言っている。
「この世界で実現して欲しいと思う変化に自分がならなければいけない」
ジェフ・ブリッジス
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覚えておいて欲しい。
何もしないで何かを得ることはない。
すべての成功の後ろには多大な努力がある。
ディック・ヴァン・パッテン
……
成功するかどうかは、君という人間と君がなにを重視するかという価値観による。
周りの人々や地域を大切にするのも成功のひとつだと思う。
自分自身や他の人々に正直であることも大切だ。
いつも他人を騙したり、自分ごまかしていたらなにをしたって成功はおぼつかない。
現実と向き合うのは時に痛みを伴うものだが、最終的にはただ空想の世界にしがみついているよりもいい結果を得られる。
もうひとつ僕が心がけているのは、上記のような特質を備えた友人達と親しくすることだ。
テリーキャッシュマン
……
酒の一杯は健康のため。二杯は快楽のため。三杯は放縦のため。四杯は狂気のため。
アナカルシス
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過去は常に、今から見れば実際の過去より美しく思える。
過去が楽しいのは、過去が今ここにいないからに過ぎない。
ピーター・フィンリー・ダン
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環境に注意しなさい。
食べ物が肉体を作るように、精神の食べ物=環境が精神を作るのである。
……
リアルに人生を変えるためには、大きな感動ではなく、小さな感動の積み重ねで自分を少しずつ変えていくのが一番。
一色真司
……
何事によらず、人が困っている時こそ、当面の利を超えて相手に便宜を図っていくことが、あとあと大きな信用となり、返ってくるのではあるまいか
井植歳男(三洋電機創設者)
……
「義理」とは、言い換えれば「借り」のことだ。
日本のビジネス社会は、「貸し」「借り」を基軸通貨として、ものごとが回っていた。
「借り」に鈍感なヤツは相手にされないし、「借り」を返さないヤツには仕事は回ってこない。
……
プロとアマの差は、とことん限界まで挑戦した経験があるかどうかで決まる
アマチュアが勝手に感じて線を引いている限界の向こう側に、本当の限界点があるの
です。
小出義雄
……
人間は不安があるから新しいものを生み出せる。
不安はマイナスではなく、前向きな要因として考えましょう。
新しい出来事に対して、今までの経験と知識という「記憶」を組み合わせて、try and errorを重ねて、さらによい結果を追求していく。その原動力となるのが「不安」なのです。
中井隆栄
……
他人と比較して、他人が自分より優れていたとしても、それは恥ではない。
しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは立派な恥だ
ラポック
……
自信、確信のないものに神は味方をしない。
最初は強がりでもハッタリでもいい。
「自分は天才だ!絶対に成功できる」と強く、強く確信することだ。
それが原動力となってあなたを成功へと導いてくれる
あきらめてしまうことは簡単である。
そんなことはいつでもできる。
しかしながら、あきらめてしまえば、それで事は終わりである。
だから私はあきらめなかった
松下 幸之助
……
毎日言い聞かせなさい。今日が人生最後の日だと。
あるとは期待していなかった時間が驚きとして訪れるでしょう。
ホラティウス
……
鉄を熱いうちに打つだけでなく、鉄を熱くなるまで打ち続けなくてはいけないのである。
……
相手を説得するために、正論など持ちだしてはいけない。
相手にどのような利益があるかを話すだけでいい。
……
愚か者の第一段階は、自分をよりよく見せようとする事である。
第二段階は、それを他人にしゃべることである。
最終段階は、他人の考えを馬鹿にすることである。
森信三 『一日一語』を読む 2月
二月一日
「人生二度なし」―この根本認識に徹するところ、そこにはじめて叡智は脚下の現実を照らしそめると言ってよい。
二月二日
世の中はすべて「受け持ち」なりと知るべし。
「受け持ち」とは「分(ぶん)」の言にして、これ悟りの一内容というて可ならん。
二月三日
畏友と呼びうる友をもつことは、人生の至楽の一つといってよい。
二月四日
生身の師をもつことが、求道の真の出発点。
二月五日
苦しみや悲しみの多い人が、自分は神に愛されていると分かった時、すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい。
二月六日
自分に対して、心から理解し、分かってくれる人が数人あれば、一応この世の至楽というに値しよう。
二月七日
金の苦労によって人間は鍛えられる。
二月八日
人間は腰骨を立てることによって自己分裂を防ぎうる。
二月九日
悟りとは、他を羨まぬ心的境地ともいえよう。
二月十日
名・利というものは如何に虚しいものか。
しかも人間は、この肉の体の存するかぎり、その完全な根切りは不可能といってよい。
二月十四日
一切の人間関係の内、夫婦ほど、たがいに我慢の必要な間柄はないと云ってよい。
二月十五日
信とは、いかに苦しい境遇でも、これで己れの業が果たせるゆえんだと、甘受できる心的態度をいう。
二月十六日
観念だけでは、心と躰(からだ)の真の統一は不可能である。
されば、身・心の統一は、肉体に座を持つことによって初めて可能である。
二月十八日
人間として最も意義深い生活は、各自がそれぞれ分に応じて報恩と奉仕の生活に入ることによって開かれる。
二月二十日
偉れた先賢に学ぶということは、結局それらのひとびとの精神を、たとえ極微の一端なりともわが身に体して、日々の実践に生かすことです。
二月二十一日
師の偉さが分かり出すのは
(一)距離的に隔絶していて、年に一回くらいしか逢えない場合
(二)さらにその生身を相見るに由なくなった場合であろう。
二月二十二日
一人の卓れた思想家を真に読み抜く事によって、一個の見識はできるものなり。
同時に、真にその人を選ばば、事すでに半ばは成りしというも可ならん。
二月二十三日
人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬も早過ぎず、一瞬遅すぎない時に―。
二月二十四日
縁は求めざるには生ぜず。
内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついには縁を生ずるに到らずと知るべし。
二月二十五日
書物に書かれた真理を平面的とすれば、「師」を通して学びえた真理は立体的である。
二月二十六日
満身に総身に、縦横無尽に受けた人生の切り創を通してつかまれた真理でなければ、真の力とはなり難い。