神秘体験の定義

トーマスとクーパーは神秘体験を次のように定義している。
畏怖の感情、言葉で言い尽くせないという感覚、神ないし宇宙との一体感、時間と環境の知覚の変化、人生の優先順位の組み替えをともなう「わかっている」という感覚。
なるほど…

禅とヴィパッサナー

以前に、どなたかが書かれていた「禅(大乗仏教)」と、「ヴィパッサナー(小乗仏教)」に違いはない、と云う言葉を読んで書いたもの。
いまでも、自分の言いたいことは、これに尽きている、と感じております。
……
>ヴィパッサナー瞑想に対する私の限られた知識からすれば、大乗的な世界観と根本的な違いを生むような、瞑想の方法上の違いは見つからない。
なぜ一方は、あるがままに観たとき「五蘊皆-空」と言い、もう一方は、「五蘊皆-苦」となるのか?
これは一言でいえば、「観察の倍率の違い」が生み出す問題であるでしょう。
以前に書いたことですが、
>ヴィパッサナーって、結局、顕微鏡下の世界の話ですから、その顕微鏡覗いたことのない人間が何言ってもしかたがないな、みたいな感じはあります。
> 眼の前にある紙を、肉眼で見ればつるつるだし、触ればすべすべだし。
> でも、100倍率の顕微鏡で覗けば、でこぼこで穴だらけかもしれない。
>どっちが“あるがまま”の真実で、どっちが妄想かという問題ではないでしょう。
> 肉眼で見れば、つるつるに見えなきゃおかしいし、顕微鏡で覗けば、でこぼこの穴だらけに見えるのが当然。
と云うこと。
実際には、空間的な倍率と云うより、時間的な倍率(動体視力)の違い。
1秒に1個のレベルの観察と、1秒に10~20個のレベルの観察を行っている双方にとって、世界の現れは異なっているのが当然であり、「世界の手触り」に相違が出てくるのも不思議ではない。

信念体系の外部の理解

我々自身の信念体系(教義、思想、理論)を使うことなく、他の信念体系を理解・評価することは不可能なことなのである。
われわれが何かを理解しよう(探求しよう)と試みるとき、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている。
少なくともわれわれは、そのようになっていてほしいという希望をもっている。
パースの言葉(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』,岩波文庫,254頁)

前世療法

だいぶ前に、ネット上のどこかで目にした文章。
上手いこと言うもんだ、と感心して取っていおいたもの。
……
前世療法
今まで受けた心理療法の中でカタルシス度は一位。
「前世=自分の過去のメタファー」、「前世療法=前世イメージ療法」だと思った。
自分で「自分専用の物語」を想像して、自分で感動する感じ。
自分専用だから当然感動する。

相対主義

他のものとは異質な〈言語ゲーム=教義〉は、それぞれが、その理論宇宙において秩序だっており、それぞれが、真/偽、合理/非合理、有意味/無意味、証拠や反証の条件・手順などについて、独自の基準や規範を内蔵しており、外部(他‐教義)からの批判を跳ね返す、閉じた体系をなしている。
教義(理論)と実践の体系で構築された、閉じられた小宇宙=瞑想宗教

逃げると掴む 「避けること(嫌悪)」と「求めること(欲望)」

もしあなたがたった一つ、恐れのない状態だけを望み、そのために恐れから逃げ出したり、恐れがそこにあるのを認めなかったりするとします。
すると、そこから逃げ出すものがみなあなたを悩ませ続けるのと同じく、恐れはあなたに取り憑いてあなたを放さないでしょう。
逆に、あなたが欲しいものを追いかければ、それはいつまでたってもちょっとだけ手の届かないところにあるものです。
これは、精神的な探求においても同じです。
神を求めて神を追いかければ、神はいつも手の届かないところにいるでしょう。
追いかけるのを止め、神というあらゆる概念を捨て去れば、あなたは神の生きた存在に包まれるのです。
あなたの人生における混乱は、あなたがあなたに取り憑いたものを避けようとしている、あるいはあなたが欲しいものを掴もうと追いかけている、そのどちらかの結果です。
そのことに完全に気づいた瞬間、すべての混乱は消え去ります。
……
あつじ屋日記 『ポケットの中のダイヤモンド』