いま、現に存在する事実・現象(痛み、不安、苦しみ)などを全面的に経験することこそが瞑想であり、
それ以外の、それを無くそう、そこから離れようとしてする心身の操作は、基本的に逃避である。
現実から逃げている限り、その現象は繰り返し現れ、人生に付き纏う。
しかし、今ある現象を変えよう・無くそうとするのではなく、
それをそのままに、見よう・耳を澄まし聴き取ろう・理解しようとする
受容的(受苦的)な心の構えができたとき、
その事実は、真理(答え)へと変容を始める(化けていく)。
この変容の過程を、事実の開花(フラワリング)との言葉で表現することもできる。
「瞑想とは、ある意識状態(現実)から別の意識状態(理想状態)へ移っていくことと思われているが、実際にはそうではなく、あるがまま(現実・事実)を見て(に聴いて)、そしてそれだけになっていく過程なのである。」
あるがままのもの(今の現実)そのものが、真理である訳ではない。
しかし、この個々人の、今ある、あるがままの現実こそが、真理への扉(秘密のドア)であり、そこを通ってしか真理の世界には参入できない。
その扉を開きたければ、根気強く、この、いまある「痛み、不安、苦しみ」と云う事実・現実を見、それに聴き、そこから逃げようとすることなく、そこに留まり、それを味わい尽くし、それと一つになることしかない。
ブログ 『日々、刻々、流れるもの』
不安、恐怖に学ぶ
善性は、恐怖の及んでいる場では開花できません。
実にさまざまな恐怖が、直接的な恐怖や未来への多くの恐怖があります。
恐怖は概念ではありません。
しかし恐怖についての説明は概念的ですし、
その説明は学者によって、あるいは知識人によってそれぞれ異なります。
説明は重要ではありません。
〈あるがまま〉が重要なのであり、
恐怖という事実に直面することが重要です。
クリシュナムルティの智慧
http://krishnamurti.g.hatena.ne.jp/sessendo/
森信三の言葉
「一日は一生の縮図なり」
「道徳とは自分が行うべきもので、人に対して説教すべきものではない」
「しつけとは、そのことの意味や価値が十分わからんうちに、形の方から身につけてゆくこと」
「一生の志を立てることが根本です。
つまり自分の生涯を貫く志を打ち立てるということです」
「人間の人柄というものは、その人が目下に対する場合の態度、とくに言葉遣いによって分かるものであります」
「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です」
「真面目ということの真の意味は、自分の『真の面目』を発揮するということ」
「真の修行は、竹刀を捨て坐禅を解いてから始まる」
人間の一生(読み人知らず)
職業に上下もなければ貴賤もない。
世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。
しかし、どうせやるなら覚悟を決めて十年やる。
すると二十からでも三十までには一仕事できるものである。
それから十年本気でやる。
すると四十までに頭をあげるものだが、それでいい気にならずにまた十年頑張る。
すると、五十までには群を抜く。
しかし五十の声をきいた時には、大抵のものが息を抜くが、それがいけない。
「これからが仕上げだ」と、新しい気持ちでまた十年頑張る。
すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。
だが、月並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。
すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。
しかし、それからまた、十年頑張る。
するとこのコースが一生で一番面白い。
森 信三
http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/hagaki/morishinzo.htm
このページにある、森信三語録「一日一語」が素晴らしいです。
二宮尊徳の歌
音もなく香もなく常に天地は 書かざる経をくりかへしつつ
見渡せば迷ひ悟りはなかりけり 己おのれが心にぞある
夕立にふりこめられて耕せば 青天井を開き給わる
山の高く見ゆるうちは勤めてのぼるべし。
登りつきれば、ほかに高き山はなく、四方とも眼下なるがごとし。
この場にいたって仰ぎていよいよ高きは、天のみなり、
ここまで登るを修行という。
報徳日めくり
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/200906040000/
見る、と、聴く
人の五官は、視覚と聴覚とを主とする。
見と聞とが、外界に対する交渉の方法であった。
しかしそれは、単なる感覚の世界の問題ではない。
「みる」とは、その本質において、神の姿を見ることであり、
「きく」とは、神の声を聞くことであった。
そのように、物の本質を見極める力を徳といい、
また神の声を聞きうるものを聖という。
徳は目に従い、聖は耳に従う文字である。
白川静「文字逍遥」より
大智禅師偈
幸作福田衣下身 幸に福田衣下の身と作り
乾坤贏得一閑人 乾坤贏ち得たり一閑人
有縁即住無縁去 縁有れば即ち住し縁無くんば去る
一任清風送白雲 清風の白雲を送るに一任す
※ 「贏」の字は、あまる・になう・もうける・勝ちなどの意。
幸いに福田衣下(ふくでんえか)の身(み)と作(な)りて
乾坤(けんこん)贏(か)ち得(え)たり一閑人(いっかんじん)
縁あれば即ち住(じゅう)し 縁なくんば去る
清風(せいふう)の白雲(はくうん)を送るに一任(いちにん)す
清風白雲を送る
■ 大智禅師発願文(だいちぜんじほつがんもん)
願わくは、我れ此の父母所生(ぶもしょしょう)の身を以て、三宝(さんぼう)の願海に回向し、一動一静(いちどういちじょう)、法式(ほっしき)に違(い)せず、今身より仏身に至るまで、その中間(ちゅうげん)に於て、生生世世出生入死、仏法を離れず、在在処処、広く衆生を渡して疲厭(ひえん)を生ぜず、或は剣樹刀山(けんじゅとうざん)の上、或はかく湯炉炭(かくとうろたん)のうち、唯これ正法眼蔵を以て重坦(じゅうたん)と為して、随処に主宰とならん、伏して願わくは、三宝証明(しょうみょう)、仏祖護念。
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大智禅師発願文 – 一顆明珠(住職の記録)
http://blog.goo.ne.jp/munekuni1973/e/33502b3aee6fd061a01168c8e9d55f32
大智禅師発願文 – ノーブーを吹き抜ける風