ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

セドナメソッドと陽明学

【解放】 セドナメソッドpart5 【自由】

からの抜粋。
これを読むとやはり、セドナの「手放す」は、「受動的な気づき」のことであるように思えますね。
—–
感情や思考に対して「私」ができることは何もないそうです。
あるがまま(変化するがまま)に任せるのが「手放す」という意味だとか。
本来ほっとけば消えてなくなっていくそれらのものがいつまでも居座ってるのは、握りしめてるからだとか。
上手く手放せない人は「手放す」って言葉の代わりに「放っておけますか」とか「受け入れますか」とか、あるいは「認められますか」とか「愛せますか」のほうがいいかもしれませんね。これって多分全部同じ意味でしょうから。
一日中解放するって、何か特別なことをするわけじゃなくて、
自分のなかに湧いてきた感情や思考に抵抗せず、ただあるがままに任せるってこと。
日本語で手放すというと、たとえばタンスを手放すというふうに捨てに行くようなニュアンスがあるけど、let go ofというのは「離れていくに任せる」とか、「ほっておく」に近いニュアンスがあるみたい。
—–
陽明学で云う「良知」も、紛れもなく「受動的な気づき」のことだと、最近理解しています。

無門関

禅宗に「無門関」と云う言葉があります。
門の無い関門、存在しない関所。
それは宇宙全体と同じサイズをした門であり、
宇宙大の外縁のない大鏡であり、
地獄の真っ只中に存在する天国への扉であります。

大道無門、千差路有り。
此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。

そこを通り抜けない限り自由はありません。
「このままでいい」「このままで悟っている」とは言えません。

そして扉は、常に/既に開いています。

内なる井戸を掘る

いま私たちに必要なのは、自身の内なる井戸を掘るための具体的な方法論 ・マニュアルであり、あとは、それを使って実際に自らのなかの手入れされず埋もれてしまっている古井戸を掘り起こすことだけです。

その気づきによる井戸を自身の意識の中核に打ち抜いたとき、
私たちは、すべての井戸が根っこのところは同じ一つで、繋がっており、常に同じ水が湧いていたのだ、と理解します。

ただ、それぞれの井戸によって、地質の違いとか、汲み取りポンプの錆の味とか、
手入れを怠っての苔の味とか、色々味が変わる要因を持っていただけなのだと。

仏の教えに握拳なし

アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?
わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。
完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし如来は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。
如来は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。
アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、如来が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
(中略)
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
—–
しからばアーナンダよ,比丘たちはわたしに何を待望しているというのであるか.わたしは,内もなく外もなく,ことごとく法を説いてきた.アーナンダよ,如来の法には,あるものを弟子に隠すというがごとき,教師の握りしめる秘密はないのである.まことにアーナンダよ,あるいは<わたしは比丘サンガを導こう>とか<比丘サンガはわたしを頼っている>とか,そのように思っている者ならば,最後にあたって,比丘サンガについて何事かを語らねばならぬやも知れぬ.だが,アーナンダよ,如来は<わたしは比丘サンガを導こう>とか<比丘サンガはわたしを頼っている>とも思っていない...さればアーナンダよ,なんじらは,ここに自らを灯明とし,自らを依所として,他人を依所とせず,法を灯明とし,法を依所として,他を依所とせずして住するがよい.
(マハーパリニッバーナ・スッタ)
—–
アーナンダよ、如来の教法には、教師の握拳(弟子に秘すべき奥義)は無いのである。(ブッダ最後の教え)
—–
ブッダの嘘と方便 -スピリチュアル寓話集

映画 『バニラスカイ』

容姿に自信を持つ、人生万事絶好調の男性が、
自分の傲慢さの招いた交通事故によって、
自信の拠り所であるあるルックス(顔)を失う。
そこから色々なことを学ぶ…
あらすじを言えば、このような話です。
脚本、音楽、映像など、全ての完成度の高さ、
何度見直しても発見がある伏線の多さなど、色褪せない映画です。
この映画全体を一つの内観研修の風景と見ることもできます。
オススメです。