気づきの言葉

まわり道は無駄ではなかった。
考えてみれば、最短距離を行くなんて、凡そつまらない生き方ではないか。

「よく言う」ことは大変むつかしいことである。
しかし、「よく黙する」ことは、もっとむつかしいことなのである。
その沈黙には、百万言に勝る力がなければならない。
「維摩の一黙、雷の如し」と言われた。

どうにもならない生徒を与えられたら、教師は、これこそ、我をして一人前の教師にして下さる菩薩の化身なりと合掌礼拝して受け取るべきである。

自分の弱さ(愚かさ、つまらなさ)に徹して、はじめて強くなれる。
強がりほど弱いものはない。

「初心」というものは、すがすがしく尊いものであるが、
やがてその道のベテランになるにつれて「初心」を失いつつある姿は、実に醜いものである。
その醜さは他人には分かるが、自ら気づくことは至難である。

自分が罪深き人間であり「地獄一定」なることを、真の宗教者は知っている。

ただ一つのものを見つめておればいい。
そして、まっすぐに歩くのだ。 よそ見をすると危ない。

苦難は、まともに受けて起つのがよい。
逃れようという卑怯な心を生じてはならない。
逃れようというのは、自分が可愛いからである。
「己を愛するは良からぬことなり」と南洲も説いている。

どんなにあがいても、どうにもならないときがある。
あがいている人間を救うために、神の大愛は働いているのであるが、
当の本人は、それに気がつかないで、苦しみ悲しんでいる。
これは人智の及び難い世界である。

「捨てる神あれば拾う神あり」というが、
本当に捨てられることは、本当に拾われることである。

両手を離せ。
放してしまえば、抱き取られる。
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上村秀雄 『歩むもの』抜粋