ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

気づきのことば

受け入れ不可能なものを受け入れることが、この世の慈悲を受けとる最高の手段なのです。

今日、あなたのまわりに起こる出来事は、これまであなたが抱いてきた思考と感情の結果であり、
明日、あなたが出会う出来事は、今日、あなたが感じ、考え、しゃべり、行ったことによって決まっていく。

人はそれを真実と認めようとしない。なぜなら認めると変わらざるをえないからだ。

ラマナ・マハリシの言葉

あるブログで読んだもの。良い言葉です。
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そこに目的地と、それへの道があるという観念自体が誤りである。
われわれはつねに目的地にいる。  「あるがままに」P.60
困難は、人々が自分たちが行為者であると思うこと―それは間違いなのですが―にあります。
すべてのことを行なうのは、より高次の力であり、人びとは道具にすぎないのです。
もし人びとがその立場を受け入れるならば、彼らは災難からまぬがれるでしょう。
さもないと彼らは災難を自ら招くことになります。
結果を期待しないであなたの仕事をしなさい。
それがあなたのすべきことのすべてです。
  「不滅の意識」P.14

高木悠鼓 ラメッシ・バルセカールの紹介

『人生を心から楽しむ』出版の際に、訳者の高木悠鼓さんが書かれた紹介文です。
良い文章なのですが、「ラメッシ」で検索しても見つけ難いので、ここに置いてみます。
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たぶん、ほとんどの読者の人は、ラメッシ・S・バルセカールという先生の名前を聞いたことはないと思うが、彼は欧米で今もっとも注目を集めるインドの賢者であり、インドの非二元論哲学アドバイタの究極の真理を普通の人が平和に日常生活を送るのに役立つように、非常にわかりやすく語る先生として有名である。
しかし、非常にわかりやすいにもかかわらず、はじめて読んだ人がすんなりと彼の教えを受け入れることはむずかしいかもしれないとも私は思っている。少なくとも私ははじめて読んだとき、ショックのあまり熱を出して寝込んだほどだった(が、経験からいって、ショックを受ける本は、たいてい自分にとってはいい本である)。何がそんなにショックだったかといえば、彼の教えの基本コンセプト、「人間には自由意志がなく、すべては神の意志に従っている」というのが、当時自分が信じていたことと正反対であったからだ。大人になってから一貫として私は、自分の自由意志、人間の自由意志を信じて生きてきたので、自分が最も大切にしてきたものを否定されたような感じがして、深い謎の迷路に落ち込んだような気分になったものだ。
それにもかかわらず、なぜかラメッシ・S・バルセカールの言葉と教えは私を魅了しとらえて離さず、過去9年間、私は読みに読み続け、また何度か直接会って、お話させていただく機会にも恵まれた。そして、はじめて読んでから9年たって、ようやく出版しようという気持ちが起り、今回の出版の実現にいたったわけである。
彼の本が他の多くのスピリチュアルな本とは全然違うのは、彼は、読者にどんな未来の希望も魂の救済も、豊かさの実現も約束しないことと、現象界で起きるどんな出来事の原因も理由も予測も語らないということだろうと思う。彼の言っていることは、要約すればただ二点のみ、「起ることはすべては神の意志である」、「よって神の意志を受け入れることに平和がある」である。と書くと何か非常に冷たい教えのように感じられるかもしれないが、それがラメッシ・バルセカールが語るように語られると、非常にやさしく温かい教えとして感じられるから不思議である。
もし読者の皆さんが、「人間には自由意志がない」とただ聞けば、それはひどく悲観的で暗い教えのように感じることであろう。しかし私の経験によれば、人間には自由意志がないということを本当に理解し、受け入れたとき、究極の自由と、罪悪感からの解放、そして許しが起るのである。もし私が何をしようが、他の誰が何をしようが、それが神(宇宙全体)の意志であるとすれば、行為の結果がどうであれ、誰のことを責めることもできない(あえて責めるとすれば、それは神が悪いということになる!)、また私が何をするにしろ結果を心配することなく、今やっていることを心から楽しむことができる。自由意志を表面的に信じていた頃より、私は今もっと自由で、自分がやりたいと思うことは何でもやっていいと感じている。つまり、日常生活においては、実際あるように見えるみかけの自由意志を私は昔よりずっと楽しんでいるということでもある。なぜなら、私がどんな瞬間に何をしたいと思っても、その思いそのものが神の意志だからだ。それ以上のどんな自由もないし、どんな喜びもない。
さて、20世紀、インドは名だたる導師や先生を生み出してきた国として有名である。ラマナ・マハリシ、クリシュナムルティ、サイババ、オショー、パパジ、ニサルガッタ・マハラジ、そして、ラメッシ・バルセカールと、西欧で名の知れた有名な先生をざっと数え上げても、これくらいはいるし、無名の人も含めれば、それこそ何千人もいることだろうと思う。その有名な先生の中でもとりわけ、私がラメッシ・バルセカールを愛するのは、彼のまったくの「普通さ」というところにある。インドの中流階級に生まれ、イギリスで教育を受け、大学卒業後は、銀行に勤め、野心的でないにもかかわらず、優秀であったため、自然に出世し、最後は頭取になり、手腕をふるう。私生活では20代のはじめに結婚し、3人の子どもの父親となり、幸福な家庭をきずくが、最愛の長男を病気で失うという悲劇も経験している。彼は、インドによくありがちな世俗を放棄したグルグルした人ではなく、また人を圧倒するカリスマ的雰囲気の持ち主でもなく、今でもよき夫、父親、祖父として家庭生活を楽しむ普通の人である。それでも87歳の今もなお衰えぬその知性の輝きは、彼に会ったすべての人たちを魅了するものであり、彼の教えと言葉には、世俗の人生を十分に生きて、その喜びも苦しみもすべてを味わい尽くし、それを乗り越えてきた人がもつやさしさと知恵に満ちている(2000年12月1日のコラム「復活!ラマナ・ハマリシ」でも、ラメッシ・バルセカールについて触れてあります)。ラメッシ流にいえば、今回出版する「人生を心から楽しむ」を読む人がいれば、それが神の意志であり、そしてまたその中の一部の人が本書を読んで何かを理解することも(理解しないことも)神の意志である。たくさん売れることは期待はしていないが、それでも私はスピリチュアルな出版社として今回の出版を非常に光栄に感じ、心から喜んでいる。

伝習録 四句教(四字教)

近所の図書館に寄ったら、廃棄本コーナーに『新釈 伝習録―現代「陽明学」入門』と云うのが置いてあって、軽い気持ちで持って帰って読んでみたら、えらく良い内容で、一気に「伝習録」に関心を持ち、調べています。これも、かなりスゴイです。
私の感覚としては、質の良い禅の話を聞いてるように感じます。
やはり名のある古典は、どれも馬鹿にできないです。
もう少し勉強してから、何か文章を書きたいと思っています。
陽明学 – Wikipedia

伝習録
私が特に感心しているのは315章なのですが、
これの現代語訳は、ネットでは見つけられていません。

私に基づいた修行と、私を明け渡す修行

強いて解脱(開放)を起こすことはできません。
それは「我」にとらわれた行為であり、自意識過剰な修行者です。
本当の瞑想は瞑想者が死んだときに始まります。
どこかに行こうとしているとき、ブッダになろうとしているとき、涅槃を得ようとしているとき、瞑想者はまだ生きています。
最初はそれが自然ではあります。
もちろん、あなたは目的を達したいのであり、そうでなければ、そもそも修行など始めたりはしません。
しかし、時を経るうちにおのずから、そのような目標も概念にすぎないのであり、かえってそれが苦しみの元となることを理解するようになります。
修行が進むにつれて、観察以外には何もないといった、対象への明け渡しが生じてきます。
  『呼吸による癒し』P.99

心の癒しと意識の目覚めのために

心の癒しと意識の目覚めのために
このブログの記事、派手ではないけど、ハッタリのない良い文章と内容だな、と思い、見ています。
誠実な、自然体な人柄を感じさせられます。
飾り無しに、等身大に自分のことを語るのは、なかなか力量が要ることだと思います。
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「その激しい怒りのエネルギーに意識を向けて、できるだけ判断しないようにしながら体全体で感じとっていくと、その激しいエネルギーが何かを燃やしていくような感覚になってきました。
怒りのエネルギーがそれ自身を燃やして浄化していくような感じでしょうか。
「意識の光を当てると、苦しみが意識そのものに変わっていく」という言葉の意味を実感しました。」