ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

ガンガジの言葉

Amazonの『ポケットの中のダイヤモンド』ページの「homu13さん」レビューから
ガンガジの本からの引用部分。
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あなたの本当の姿、それは意識です。
感情でも思考でもありません。
これらは現れては消える覆いに過ぎません。
誕生し、しばらく存在し、そして死んでいきます。
意識は現れも消えもしません。
それは今ここにあります、それは今以外の時を知りません。
大人になるにつれ、私たちの知性は、「もし心を開いても安全なときがあるとしたら、それはいつなのか」を知るために充分な情報を集めようと一種の警戒過剰状態を生み出します。
あなたの知性に情報を集めさせるのをやめさせましょう。
条件づけられた思考は、更にその条件を強めます。
あなたの知性をただその源に抱かせてあげましょう。
あなたの自己定義は、あなた自身ではありません。
それはただの思考です。
あなたの真実は思考されることはありません。
なぜならそれは思考の源だからです。
それはあまりにもあなたに近いところにあるので、
それが自分であるとあなたは信じられないのです。
真実を知りたい、という願望は、どうすれば真実を得られるか、そのための障害物を排除できるかという頭の中の概念に変化しがちです。
そして人は真実そのものよりもこの概念を崇拝し、信頼するのです。
真実についての理性による最新の解釈に頼る、堂々巡りの習慣と共に。
実は、あなたがネガティブな感情を本当に経験すると、それは消えてしまいます。
恐れ、怒り、悲しみ、絶望に対してあなたが本気で「いらっしゃい」と言い、
そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることはできません。
なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語ってはいないからです。
恐れ、怒り、悲しみは、物語とつながっていなければ存在できないのです。
もしもあなたが心の底から真実や神を求めるならば、あなたはそれらが既にここにあることに気づくはずです。
それに気づかないのは条件付きでそれを求めているからなのです。
本当の自分でありたいけれど、それはあくまで自分の望むように、条件に従った形で…と考えているのではありませんか? 既にある、悟りについてのイメージを捨てましょう。
人は傷つくことが多々あります。
どれくらい「傷つきたいか」ではなく、どれくらい「傷ついてもいい」と思うか。
それはあなたがどれくらい愛から学ぶ意志があるか意味します。
愛はあなたの教師です。
あなたが傷つく原因はあなたが愛しているという事実です。
愛があなたを傷つけるなら、徹底的にズタズタに傷つきなさい。
真っ二つに引き裂かれた心から、もっと深い愛が姿を現すように。
愛にその身を委ねるとき、愛はあなたが誰であるかを教えてくれます。

気づきの言葉

赤手空拳にして起つ。
わが身を飾るものが何一つなくなって、はじめて本物がうまれる。

……

とどのつまりは、天が相手と覚悟せよ。

……

自分の意に逆らい、甚だしく気に入らぬことが月に一回くらいはあった方が良い。
これがどんなに自分の増上慢の抑止力になってくれることか。

正法眼蔵「身心学道」巻

身学道といふは、身にて学道するなり、赤肉団の学道なり。
身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり。
尽十方界是箇真実人体なり、生死去来真実人体なり。
この身体をめぐらして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝に帰依して捨家出家する、真実の学道なり。
このゆえに、真実人体といふ。後学かならず自然見の外道に同ずることなかれ。
—–
道元禅師遺偈
五十四年、第一天を照らす
箇のぼっちょうを打(だ)して、大千を触破す
咦(いい)
渾身著處無く
活きながら黄泉に陥(ゆ)く

「分離した個人」と「苦しみ」

Q. 私は、「気づきとして生きる」とか「あるがままにゆだねる」とか「自分が気づきであるということを知る」といった考えと格闘してきました。私はこれらのことに、私自身の胸の激しい痛みとの関連において取り組もうと長い時間をかけて努力してきました。そして当然ですが「努力する」ということは行為することを意味していて、それは何らかの行為をする分離した個人というものを意味します。そしてその分離した存在はそもそも存在していません。私は立ち往生してしまっていることに気づきました。「私」がどんなことをしても、痛みと憂鬱の経験は続き、ものすごく苦しんでいます。これは明け渡しと受容ということが起こるかどうかの恩寵次第だというように見えます。どのような「努力」もより悪影響を及ぼすように感じます。それなのに努力は続きます。
A. もし私たちが苦しんでいるとするならば、見かけ上の「私」ははっきり存在しています。この見かけ上の「私」が苦しみの原因です。
しかし、もしこの見かけ上の「私」として、「努力は行為を意味し、それは分離した個人が何かをしていることを意味する。そして分離した個人はそもそも存在しない」といった考えを私たち自身に重ね合わせるならば、探究されるべき苦しみというものに対して行える一つのことを自身から奪うことになります。
他の言葉で言えば、もし「分離した個人は存在しない」ということを知っていれば、私たちは苦しんでいないでしょう。苦しむと同時に「分離した個人は存在しない」と理解していると主張することはできません。この二つの立場は両立しません。
この場合、「分離した個人は存在しない」という観念は単なる観念であり、不二一元性というものが私たちが抱くただの新しい宗教になってしまっています。
ルパート・スパイラ « resonanz360