ブログ 『日々、刻々、流れるもの』

『東洋の瞑想とキリスト者の祈り』

この本は一般に、仏教系の瞑想の本として名前が上ってくることは少ないですが、実際の内容は、なかなか質の良い気づきの瞑想と反応系の瞑想の入門書です。

特徴としては、

1. マハーシ式、ゴエンカ式双方を均等に冷静に紹介していること。
2. ヴィパッサナー系の知覚力を研ぎ澄ます瞑想法と、イメ-ジを使ったお祈り的な瞑想法をバランス良く紹介し、位置づけていること。
3. そのすべてを「神を感じるための霊的修習」として位置づけていること。
などです。

沢山の瞑想法が紹介されているので、これを読んだだけで、たとえばマハ-シメソッドを正確に独習できるだけの情報は含まれて居ないのですが、色々なヒントが含まれた良書だと感じています。

一番の美点は、キリスト教の指導者でありながら他宗教の伝統に対してオープンであり、他宗教への敬意を忘れない態度にあると思います。
時々、思い出した様に眼を通している本です。

サダナへようこそ

『東洋の瞑想とキリスト者の祈り』

『東洋の瞑想とキリスト者の祈り』 アントニー・デ・メロ

気づきの言葉

「Magdaleneのひとりごと」から
http://magdaleneshio.blog88.fc2.com/blog-entry-223.html
http://magdaleneshio.blog88.fc2.com/blog-entry-180.html

「山登りを私は信じません。“登り”などないのです。
「私はこれだが、いずれそれになる」などないのです。
あるのはただ「これ」のみです。
「これ」を変えなさい―それがすべてです。」
との、クリシュナムルティの言葉と響きます。

生まれつき憂鬱な赤ん坊は居ない

生まれながら憂鬱な赤ん坊は、まだ見たことがありません。
否定的な思考は、最初から持ったものではないのです。
思考パターンは学習して獲得したものです。
学習したものならば、それとは違う色々なパターンも同じように学習して獲得することが可能でしょう。
もちろん、思考パターンもスキルなので、変えるためには地道な練習が必要です。それなりの時間も掛かるでしょう。
—–
認知療法:行動療法:論理療法14 -質問回答歓迎-
 の投稿56より。

「現実」と云う煉獄

本で読み学んだ知識、考えて得た理解―それらは、「現実」と云う生の現場で、日々の人との交わりの中で、試され、磨かれる。
血肉化するかどうかは、どれだけ真摯に、その指摘 ・ 衝撃 ・ 苦しみを受け止められるかに掛かっており、自己正当化 ・ 自己防衛心から懺悔への転身が必要である。

……

極楽は地獄を通らなければ到達できないものであることを忘れてはいけない。
地獄あっての極楽なのである。
地獄の業火に焼かれて、心身共にこなごなになったとき、極楽の扉は開き始めるであろう。

……

西瓜は切ってみなければ、その良し悪しは分からない。
人も真っ向唐竹割りに斬られてみて、初めてその真価が現れる。

……

事上練磨―。世間の冷徹な現実が、時として私たちの頭上に加える一撃は、痛烈無比なる教育である。

……

自分に対して悪声を放つ者があれば、それは間違いなくわが良師である。
素直に、その言うところを聞くがいい。
謙虚に己を反省し尽くした上で、尚、彼の言うところが自分に当てはまらない場合は、彼のファウルを気の毒だと思えば良い。
だが、たいていの場合は、ぴたりと自分の過誤や欠点が指摘されているものである。
良い勉強をさせてもらったと思って、「授業料」を呈すべきである。

……

通身徹骨、己の至らなさと過ちとを思い知ること― すべてはここから始まる。
己を良しとしている限り、人間関係は決して好転しない。
そして、心の安らぎがなく、常に修羅の巷をさまようている。

『上村秀雄 歩むもの』から

地下鉄サリン事件の記憶

当時、私は福井県に住んでおり、あの朝、何か月か振りに東京に出る用事があり、高速バスにて、早朝浜松駅着。
品川から新宿、丸の内線で中野新橋駅を7時前に下車。
知人宅でしばらく仮眠を取って、9時前に再び中野新橋駅に行くと、なぜか入り口にロープが張ってあり、入れず。
仕方無しに中野坂上駅まで歩いて丸の内線に乗り、霞ヶ関駅を通過(電車は停止せず、駅構内では、駅員さんが何か慌てて作業していました)。
そして確か本郷3丁目で降りて、東大そばの仏教専門書店に寄ったら、本屋のおじさんがテレビ見ながら「なんか、大変だなー」と言っているので、「一体、何があったんですか?」と尋ねると、「いやー、よく分からないけど、異臭騒ぎがあったみたいだよー」との答え。
「ふ~ん」位しか、そのときは思わず。
夜になって、事の大きさを知りました。
あのとき、もし1時間ずれていたら、私の人生も全く違ったものであったかも知れないな、と云う思いと、もう15年が経ってしまったか、と云う思い。
また、加害者・被害者、事に関わった多くの人たちの、そこまでと、その時と、その後と、また「宗教という問題」と、様々なことを考えながら、この、良くできていると思われる映像作品(→リンク先から削除されました)を見ていました。