本当の自分を認める

現実の自分を素直に認めるなら認める。

それが嫌なら、本気で別の自分を目指せばいい。

そのどちらにも徹底できないまま、曖昧に己を誤魔化しながら生きている。

だから、何かの拍子に化けの皮が剝がれそうになると、焦ってしまうのだ。

 

穂村弘『野良猫を尊敬した日』講談社文庫、P135

進化生物学とダーウィンの呪い

そもそも私たちは、私たちの事実をもっと知らねばならない。
実用的な科学知識だけではなく、自分自身を知りたいから知るための科学知識が必要なのだ。

ヒトは、どう進化してきたのか、またヒトの性質はどう決まり、形づくられるのか。
私たちは、もっと私たち自身をつくる仕組みやその進化のことを知らなければならない。


真理に近づくという目的で進化学は輝く。
ただし真理に接近したからといって幸福に近づくわけではない。幸福か不幸かは、また別の話だ。それでも真理には力がある


進化の科学は光と闇が表裏をなす。
天使のような悪魔ほど危険な存在はないように、やさしくて役立つ科学、わかりやすくて役立つ科学を装う説明は危険である。

「ダーウィンがそう言っている」は、最もシンプルでわかりやすく、科学を装う危険な説明の一つである。


人間の精神活動は目が眩むほど複雑だ。
世界は八十億の心で溢れているのに、同じ心は一つとしてない。
人の心は、ときに首尾一貫しているが、ときに合理性を欠き、二面性を持ち、ときにダブルバインド的であり、矛盾に満ちていてとりとめがない。


『ダーウィンの呪い』 千葉 聡より

死の隠蔽としての日常意識

日常感覚は死の隠蔽の上にはたらく。

マンホールの上を歩く足は足下に空洞のあるのを忘れている。知っていてもそのために立ち竦むことはない。
日常感覚も死の空洞の上に鉄板を張って、落ち込むことのないものとして生きている。
人間が笑うことができるのは、死を忘れているからだ。
死の際まで死を思わないで生きることは人間の生き方のもっとも健全なものにちがいない。
たいていの人はそのように生きており、尿路の結石に苦しんだ十六世紀フランスのモラリストも、たしかそういう生き方を推奨していたと記憶する。

しかし、結石の痛みが我慢ならぬほど強くなれば、人はいやでも意志のそとにある身体というものに思い至る。
また、その痛みが生命の不安を誘い出せば、いつまでも死をよけて通ることもできなくなる。
そしてそのとき、人は、死とは身体の消滅であるというわかりきった事実の前に駭然とする。
一人の人間にとって、彼自身の死だけが唯一正真の死だが、人はいつか、目隠しを解かれて、そういう自分の死と対面しなければならない。

『この世、この生』 上田三四二

『物語 哲学の歴史』

広大な宇宙の片隅の、そのまた片隅の、地球という星の下に生きるまったく無力な人間が、その思考力だけを頼りにして宇宙全体の成り立ちを考え、そのなかで生きている自分の位置と意味とを自力で反省してみる。

これは間違いなくパラドキシカルな企てである。

『物語 哲学の歴史』

『物語 哲学の歴史 – 自分と世界を考えるために』

終わらない梯子登り

立身出世という奴は、この壊れると分っている土台の上で、梯子登りをやることなんだ。高く登れば登るほど危険なんだ。

そうと知りながら、周囲はもちろん彼自身からもこの梯子登りを強いられているんだ。

『川端康成』筑摩書房、P46