地球大進化 46億年・人類への旅

NHKオンデマンド Nスペ 地球大進化 46億年・人類への旅
この素晴らしい作品が、NHKオンデマンドで、僅か数百円で見れるようです。
「進化論的なものの見方」への導入として非常に良くできた作品で、多くの方にオススメしたいのですが、私の個人的な見所として、第2集に正味20秒程度出てくる「ウミエラ」の映像には魅了されました。
これまで見たことのある「生きもののダンス」としては、繊細さ・優雅さなどに於いて最高のものだと感じました。
自分にとって、ひとつの目標となる動きだと。
この短い映像を見るだけでもお金を払うだけの価値はあると思います。
第1集、第2集、共に素晴らしいです。

映画 『マイネーム・イズ・ハーン』

歴史に残りそうな、相当に構想力の優れた作品です。
いろんな意味で驚き、感心し、続けて三回見ました。
この映画を見るなら、あらすじ含め、事前の知識は何もない方が良いと思います。
注意点として、前半で映像の撮り方の退屈さで見るのを止めてしまわないこと。
絵の取り方は、「気の利いたテレビドラマレベル」に感じらましたが、
最後まで見てみて、これはおそらく万人向けに(分かりやすくする為に)、戦略的に選ばれたものではないか、と感じました。
いま、アマゾンで新品が送料込み1000円以下で買えますが、この内容なら、えらく安いです。
マイネーム・イズ・ハーン

肥田春道師の言葉

「きちっと腰腹の中心に力をまとめたとき、私は忽然として全く自我を離脱して清浄悠久の涅槃境に入った。――幽かに小鳥の鳴く音が聞こえる。眼を上げると海、山、原、林・・一切が輝く。みんなこぼれるばかりに光を被っている。その美しさ――――オオ、完全な正中心(臍下丹田)を得た瞬間の、あの絶美な天地の姿はどうだ。なんという素晴らしい詩的神境だ。――宇宙神秘の至宝は各人の正中心に潜んでいる。無限の光明である。絶対の歓喜である。
――かつ目すれば・・オオ、なんと言う素晴らしい美しさだ。なんという神々しさだ。枝を差し伸べた青木は・・その平凡なありふれた木の枝までも、ゆらゆらと微風におののいて神々しく、――辺り一面に白紫光の宝石をちりばめた様に美しく輝いた」
「オオ、嬉しい。かたじけない。古の釈尊がかつ然として大悟徹底せられた時、天地の万象は燦然として光り輝いたというが・・・またソクラテスは3日間ギリシアの原野に佇立したまま瞑想を凝らし、東天微光を呈した時、忽として悟得し、欣喜雀躍したというが・・・乞う、私の不遜を寛恕せられよ。これ以上の美しさ、これ以上の嬉しさがあろうか。いや、これ以上の嬉しさが、この世の中にまたと有り得るだろうか。」
「もう沢山だ。受けきれぬ恩寵に、見も心も張り裂けそうだ。」
「敬愛する満天下の同胞諸君よ。願わくばおのおの諸君自身の正中心に帰れ。しかして全て備えられ、全て与えられたる大自然の懐に戻れ。心身健全の賜物のごときはいわずもがな、霊然たる天父の恩寵、御身の魂を抱擁せらるるの聖境を体得せらるるに至るだろう。」

原田雪渓師のお話

私と同じく井上義衍老師に参じられた青野敬宗老師が遷化をせられて、いろいろ当時のことを考えさせられます。
たまたま蒼龍窟という所で、私共は、六、七人で集まって修行をさせていただいておりました。
ある日、敬宗師といっしょにお茶を飲んでおった。
その時に敬宗師が
「今、仏道はどこにあるのかね、雪渓さん」と、こう尋ねられた。
そこで、「仏道はどこにあるのか」と尋ねられた私は、彼の言葉をもう一度自分で、「仏道はどこにあるのか」と、反芻をしてみた。
その反芻が、自己の全体になった―
今まで求めていたもの、探しておったものがきれいに、確かになくなった。
即ち、「仏道という幻影がなくなった」ということです。
そういう事実があります。
それが私の今の様子です。
本当に一言半句の下に換骨脱体をするということは必ずあるということです。
かなり以前から、「今のほかに求むべきものは何もないんだ」ということは、きちっと信決定をしておった。
今のほかに絶対にない。
もし今のほかに自分の求めるものがあったならぱ、どんなに努力をしても、師匠の言うことをそのまま受け取ってみたとしても、今の外を求めることになると、それは誤りである。
しかし、このもの以外にない。
薪を運ぶ、水を運ぶ、草を取る、読経をする、これ以外にないっていうことは、理として理解できる。
ところが、「ない、ない」という「ないもの」が残るんですね。
「ない」ものというのは、「ある」ということと同じことなんです。
自分の考えの中ですから、「ある」と言おうと「ない」と言おうと同じことなんです。
言葉というのはそれほど微妙に人の考えを左右するものなんです。
畢竟、なんだかんだと理屈を言い、いろんなことを聞いても、結局これ以外ないじゃないか、っていうようなことで、自分自身を自分で納得をさせておるから、不自由じゃないですか。
そういう日が続いておったように思います。
本当に困り切っておったという様子でしょうか。
とにかく「仏道はどこにあるか」ということを尋ねられて、自分でそれを探しておる、探しているその事実が仏道そのものであるから、求めることがなくなった。
本当にそういう事実がある。
ですから、あの時に尋ねられなかったならぱ、どうだったろうかなと、今、思い出して話している訳です。

放射能関連の断片アレコレ

人には、何の薬効もないものでも「薬」と思って呑むと実際に効き目が出るという「プラセボ効果」も発現しますが、その逆の「ノセボ効果」も発現することが知られていまして、「被曝したんじゃないか」「今食べたものは放射能に汚染されていたんじゃないか」と怖がる事によって、実際にはなんでもないのに健康を害する可能性があります。
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・「リスクはわからない」というときの『わからない』は、青天井ではなく、検出しがたい差という意味である。
・「ただちに健康に影響しない」の『ただちに』は、遅発性ではなく、その原因だけによる差が検出しがたいという意味である。
私の家族も、ニュースでこの話題が出るたびに「大変、どうしよう」というので、その都度説明をしてます。
なかなか身に付かないというか、正しい言葉の理解はしてくれないのですが、地道にやってます。
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もちろん、人間はリスクの大きさだけでは判断しません。
たとえどんなに小さなリスクでも、放射能は嫌だと言うのなら、それは個人の選択の問題です。
同じがんになるのでも、放射線が原因だと我慢できないと考える人もいるかもしれません。
しかし、定量的云々と言いながら、小さなリスクを大きなリスクと勘違いしているのは不幸なことです。
今までの経験では、その両方がない混ぜになっている人が多いです。
リスクは気にするほど大きくは無いと説明すると、リスクの大きさの問題ではないという答えがしばしばかえってきます。
しかし、更に話を続けると、説明を信用していないだけで、リスクは大きいと思っているようなんですね。
それでいて、リスクが小さいことを保証して欲しいようでもあります。
でも、そんな補償は信用出来ないというのですから、どうしようもありません。
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基準値を超えれば危険というのは世間によくある誤解です。
基準値とは,管理のためのもので,超えたからといって危険というのでは困ったことになるのは少し考えれば分かります。
基準値以下は合法ですので,規制出来ません。
危険な状態ぎりぎりまで規制出来ないというのでは,非常に危うい綱渡りの状況になってしまいます。
危険な量にはそもそもバラツキが有りますし,個人差や測定誤差もあります。そのため,安全率というものが必ずあり,食品関係では100倍以上となっています。
基準値を超えれば,何らかの措置を行い,現実に被害が出ないように管理します。
原発事故以前から,食品の基準値違反が時々報道されていて,「直ちに健康への影響は無い」というフレーズは使われていました。
それから,基準値は安全とは関係なく,現実的に管理出来るかという観点からも決められています。
伝統的に食されてきた食品は,安全率が低いものが有ります。
そうしないと,食べられなくなるからです。
ひじきなどがその例です。
それに対して,放射線は平常時では現実に管理出来ますから,非常に安全率を大きく取って有ります。
そのため、事故の時は基準値を超えるという事態になりやすいのですが、それはそれだけ管理が厳しいということだと思います。
もちろん、基準値を超えても良いと言っているのではありません。
余裕を持った状態を保つために、管理上の何らかの措置が必要になりますが、健康被害が出るかどうかは、基準値超えの程度次第です。
具体的に、基準値と実際に健康への影響がある量との関係がどの程度かについては、次の松永和紀さんの記事などが参考になると思います。事故から間もない3月24日の記事です。
「適切に怖がりつつ安心して食べるために~自分で計算しよう!」
http://blog.goo.ne.jp/wakilab/e/bd31dc95883dafbff426c3eca673eb24
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不安の増幅は現実の認識をゆがめる。