Aphex Twin – Cliffs

名曲だと思います。
これ一曲だけ発表して死んでも歴史に名前が残るほどの。
ただし、この曲は、真に聴く(理解する)のが難しく、
ドップリと入り込んで、浸って溺れ切って、それだけになって聴かないと、曖昧過ぎて、何のことやら分かりません。

Selected Ambient Works Volume2 Aphex Twin
このアルバムの一曲目に、この曲(Cliffs)は収録されているのですが、
レビューに眼を通してみると、皆さん、ある種特殊な思い入れを持って
このアルバムを語られていることに気づきます。
しかし、早まってこのアルバムを購入してしまうと、
その内容の重さに後悔する可能性が高いです。欝入ります。
まずyoutubeで、収録曲を一通り聴いてみることをお勧めします。
確かに超名盤だとは思いますが、難易度も超高いです。

気づきの修行

つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、進むにも退くにも、正知をもって行動します。
真っ直ぐ見るにもあちこち見るにも、正知をもって行動します。
曲げるにも伸ばすにも、正知をもって行動します。
大衣と鉢衣を持つにも、正知をもって行動します。
食べるにも飲むにも噛むにも味わうにも、正知をもって行動します。
大便小便をするにも、正知をもって行動します。
行くにも立つにも、坐るにも眠るにも目覚めるにも、語るにも黙するにも、
正知をもって行動します。
以上のように、身の内において身を観つづけて住み、あるいは、
外の身において身を観つづけて住み、あるいは、
内と外の身において身を観つづけて住みます。
また、身において生起の法を観つづけて住み、あるいは、
身において滅尽の法を観つづけて住み、あるいは、
身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。
そして、かれに、〈 身のみがある 〉との念が現前しますが、
それこそは智のため念のためになります。
かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。
このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。
【 長部経典 第二十二経「大念処経(心の専注の確立)」】

内なるグル

あなたの内なる真我が最も偉大なグルだ。
本当に、彼が至高の師なのだ。
彼だけがあなたを導くことができる。
道の終にあなたが出会うのも彼だけだ。
彼を信頼しなさい。
そうすれば外側のグルは必要ない。
しかしまた、彼を見いだすための強い欲望をもたねばならず、
障害や遅れをつくり出すことを何もしてはならない。
そして、後悔することにエネルギーと時間を浪費してはならない。
過ちから学び、それらを繰り返してはならない。
                   『私は在る』(p165-167)

バーソロミュー

ネット上で見かけた、『バーソロミュー―大いなる叡智が語る愛と覚醒のメッセージ』からの断片色々です。
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人が不幸でみじめになるのは、かたくなに、苦しみというエネルギーの動きを認めようとしないからです。

こうしたジレンマから逃れるには、勇気をもって自分のなかのマイナスの
極の感情に向き合い、それをじっくり感じることです。
このゲームは、自分の周りの人間に比べて、自分の方がすぐれた人間だと思わせてくれるので、非常にパワフルです。何しろあなたは神を求めているのですから。
神を求めるのは、人間にとって最も崇高な行為だというのは誰でも知っています。
こうして神を求めている人は、自分がますます強く、賢く、崇高になっていくと感じます。
ついには周りの人たちから、けむたがられます。
あんまり崇高で、その人がいるだけで、周りの人たちは罪悪感を感じるようになってしまいます。
まわりが罪悪感を感じるのは、その人のエゴが、いつも他人をあれこれと価値判断して裁いているからです。
どんな人に対してであれ、決まった生き方の法則などないのだということを忘れないでください。
自分のほうが優れていると思っていると、他人を愛することはできません。
(ある意味、邪道かもしれませんが)ときには怒ることも愉快なことです。
怒りを「選択」すれば、楽しいし、必ずしも破壊的ではありません。
けれども、無意識に怒りのほうへ動いていき、やがて爆発すると、あとで罪悪感や後悔や恨みの感情におそわれます。
なぜなら、自分の半分は怒りたがっているのですが、あとの半分はそれを認めたがらないからです。
(自分の怒りをおさえ、代わりにほほえむことが上手な人は、自分は「優しい人だ」という自己観を変えなくてすみます・・・)
きれいな怒りとは、きちんと言いたいことを言って、それに全責任を負うことです。
汚い怒りとは、相手のせいにして、相手の「欠点」を相手に投げつけることです。
あなたはいつも自分で操縦桿を握っているのに、それを意識していません。
「気づき」とは、すべての可能な想念に気づいており、
自分が選択肢を持っていることを知っていることです。
ですから、自分をみじめにするものを選ぶ代わりに、ほかのものを選んだらどうでしょう。
恐れを感じるとき、人はそれを肉体を通して感じます。
つまり、恐れは肉体的なものなのです。
しばしば胸やのどや頭がしめつめられる感じがします。
そうした状態になったときには、今までの効果のないやり方を繰り返す代わりに、
次のことを試みてください。
まず、恐れのエネルギーが体のなかで活動するのにまかせてください。
それを取り除こうとしたり、何かに変えようとしたり、抑えこもうとしたり、
それから逃げようとしたりしないでください。
完全に受身になって、それが働くのにまかせてください。
とにかく、、感情を感じることから始めてください。
感情をありのままに受け入れていけば、それを解放することができます。
人が感情のイメージの段階でストップしてしまうのは、自分が感じている感情を発散するのはいけない、と思っているからです。
だから、その感情を表現しないし、表現されない感情のエネルギーが体のなかにたまっていくのです。
怖れの波の谷を感じたら、怖れが存在しているという意識に注意深く心を向けてください。
「こわい」とは言わないでください。
「怖れが存在している」と言うのです。
この二つの表現には非常に大きなちがいがあります。
そしてそのとき、自分のハートセンターに意識を深く集中してください。
ただ、じっとしているのです。
怖れという感情をしっかり見つめようと固く決心していると、おもしろいことが起こりはじめます。
自分の不安や怖れがどこから来るかが理解できると、自分のなかで何が起こっているのか、わかるようになります。
怖れの正体をはっきり知るまで、怖れから逃れることはできません。
マスターとは、「自分にできるだけのことをして、この怖れに対処しよう」と言う人です。
怖れとともにあって、それを感じとろうとすると、自分の怖れの感覚のあらゆる側面が姿を現し、その正体を教えてくれます。
いろいろな感情はあなたの「子ども」なのです。
感情はあなたを構成するすばらしい要素であり、あなたの創造物であり、あなたがあなたである本質的なもの、これまでのあなたを形作ってきた要素です。
感情はあなたの一部です。
人間としての全体性に達すると、すべての感情は自分自身であるが、自分のすべてではない、ということがわかります。
自分という別の存在を意識しつつ、あなたは子ども(すべての感情)を抱きしめ、支え、愛してやります。
そして、この愛のただなかで、あなたは子どもとひとつになります。
自分を愛し、自分のなかのあらゆる部分を愛することによって、自分自身とひとつになれます。
自分の心のなかに入っていき、自分の全存在のパワーを使って、「嫉妬心のまっただなかにいる自分を愛します。怒りの行動のまっただなかにいる自分を愛します。自己憐憫を感じている自分を愛します」と、どんな感情であれ、どんな想念であれ、どんな行動であれ、そのただなかで、「私はこの瞬間、ありのままのこの自分を愛します」と宣言することから、あなたは自由を獲得できます。
事実はこうなのです。
想念は人のまわりにいつも漂っていて、想念と人とのあいだにはオーラ(霊域)と呼ばれるものがあります。
それぞれの性癖により、まわりにただよう想念のなかの特定のものを選び、自分に引きつけます。
人はいつも同じ想念を自分に引きつける傾向があり、同じ道を何度も何度も歩くはめになります。
ここが重要な点なのですが、想念が入ってくる時点で、それは感情に転化します。
この感情があなたのなかに入ってきて、いわゆる魂と呼ばれるもののなかに記録を残します。
その瞬間、未来の行動が形成されます。
このプロセスが理解できますか。
想念は外にあるのです。
想念はあなたのオーラを通過して入ってきます。
あなたにぶつかり、感情として記録されます。
その感情から、あなたは未来の行動を創りだすのです。
あなたは求める人か、見つける人のどちらかなのです。求める人は求めつづけます。
見つける人は「悟りを理解することはできないし、理解する必要もないし、それそのものを生きるしかない」ということを悟ります。
毎瞬、毎瞬、自分の心のなかの反応を通して、あなたは自分を創造しています。
あなたの心のなかをゆきすぎる何百万という想念のなかから、
あなたは自分がしがみつく想念を選ぶ、ということです。
自分の幸せは自分で…
自分の人生で起こる出来事に対する自分の反応を変えることで、これを達成できます。
自分がなろうとしているものになろうとする努力をやめ、
その代わり、今の自分が自分なのだ、今この瞬間がその瞬間なのだと感じるようになれば、あらゆる葛藤は終わります。
誰も愛し方を学ぶ必要はありません。
必要なのは、もっと簡単なことです。
自分の怖れを捨てることです。
怖れがなくなったとき、愛はそこに現れます。