末期の修行

民間療法に走った人が気の毒なのは、「死の受容」という、一人の人間にとって最も重要な人生末期の精神的成長の機会を奪われてしまう、という点だ。
人間は、いつかは必ず死ぬのであり、正統な治療のすべてを尽くして治療の見込みがなくなったときは、死が遠くないことを悟る重要な契機となる。(略)
民間療法に頼って、偽の希望を抱いて人々は、この大事な期間を持つことなく死に直面する。
死んでいく本人も締めくくりのない最後になり、残される家族も別れの挨拶をしなかった、と云う思いを残すことが多い。
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『良く死ぬことは、良く生きることだ』 千葉敦子著より

私は、人を不快にさせても構わない

先日、読んだ記事に「誰か(他人)の行動に腹が立って仕方ないときの対処法」が書かれていたのですが、なるほどな、と思いました。かなり有効だろうと思います。
たとえば、電車のなかで、音漏れさせて音楽を聴いている若者が居たとして、そのときに「私は、音漏れさせて音楽聴いてもかまわない」と、主語を「私」にして宣言します。
良く考えられた方法です。
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「私は〇〇(その行動、姿勢)でもいい(構わない)」って具合だよ。
例えばその後輩に当てはめるなら
「私は別にみんなの足をひっぱっても問題ない」とかそんな感じ。
別に心の底から言う必要はない。
最初は軽いことで試してみてくれ。
電車で他人のイヤホンの音漏れが気になったら
「私は別に音漏れさせてもいい」とか
字面は自分がピンとくる表現に変えてくれ。
とにかく「やだなぁ」と思うことを自分に許可してみてください。
「私は知ったような口をきいてもよい」
「ぼくは別に先輩風を吹かせても構わない」
「俺は後輩に影響を与えたがってもオッケーだ」
「自分は周囲から認められたがっているがそれでもいい」
こんな感じで宣言して、別にリリースとかしなくてもいい。(してもいい)
自分の心にピタっとはまる表現を採用してください。
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【解放】 セドナメソッドpart6 【自由】
より

騙されていた国民

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。(伊丹万作)
多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。おれがだましたといった人間はまだ一人もいない。民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中にはいってみれば、みな上の方をさして、上からだまされたというのだろう。
上の方に行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだまされるわけのものではない。
このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間組織がいかに熱心かつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
だまされたものの罪は、ただだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、いっさいの責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度をみるとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(略)
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないだろう。 (「映画春秋」1946年8月号)

ラーマクリシュナの福音

一目置いてる、ある方が言ってました。
「ラーマクリシュナを読むのは難しい。
なぜなら、彼は、悟った後、この世界でどう生きるか、ジュヤーナ(智慧)の道を踏破した後に出てくるバクティ(愛・信仰)の話をしているのだが、多くの人は、それを悟り以前の話として読んでしまう。
なので、順序として、まずクリシュナムルティや、ニサルダガッタ、プンジャジなどを充分に読み(それらの知識と経験を充分に積み)、その後で読むべきものである」と。
最近、『ラーマクリシュナの福音要約版〈上巻〉』を手に入れ、読み進めているのですが、その言葉に頷ける気がしてきました。
私は、この本を20代前半で一度読んでいるのですが、それを今のようには読めませんでした。
「神」「愛」「奉仕」などの言葉の一つ一つを深いレベルで理解できるだけの基礎(知識と経験)がない限り、この本の味は分からなかったのだな、と感じます。
ただ一つ感じるのは「彼の教えは普遍性を持つ(わたしたちにも適用可能)だけれども、歴史的人物としての彼の個性は、特異例でしかない」と云う印象です。
この印象は、20年前に読んだときと変わりません。
これは、クリシュナムルティにも同じく感じることですが、
もともと特異な脳を持った変種(良い方向に壊れた特異例)だと思います。
日常的にしょっちゅう神に酔い、外界知覚の無いエクスタシーに入る姿には、異様な感じを受けます。
そこらへんは、余り気にしないで良いのだと思いますが。
日本語訳には、2種類のものがあるようです。
『抜粋ラーマクリシュナの福音』
『ラーマクリシュナの福音要約版〈上巻〉』
『ラーマクリシュナの福音』
ラーマクリシュナの福音 OSHO「私が愛した本」
ラーマクリシュナ – Wikipedia

肉体を通しての自由

先ほど、こういう文章を眼にしまして、違和感を感じました。
> 私は肉体ではありません。私は自由です。
> 肉体が自分であると知覚している限り自由は不可能です。
> 肉体は制限です。
> 肉体の中で自由を求める人は、自由を見つけることが不可能な場所で自由を探しています。
> マインドがそれ自身を肉体の中にあるものとして見なくなり、肉体にしっかりとつながれていて肉体の存在によってかくまわれているものとして見なくなれば、自由になることができます。

私なら、こう書くでしょう。

肉体を通して、自由に生きることができる。
肉体の中に、自由への扉(鍵)が秘めれている。
人間(意識)は、自由を拡張するために肉体を持ち、それを進化させた。
マインド(心)は、精神的なプロセスではなく、まぎれもなくマテリアルな、肉体的なプロセスである。
肉体を通して、マインドは自らの身の程(存在位置)を知り、自由に至ることができる。
肉体=意識であり、肉体を離れた場所に意識の自由を求める錯誤に陥ってはならない。

瞑想や宗教を「肉体と切り離されて存在(存続)する純粋なる意識(魂)の探求」であるとする理解が、未だに(スピリチュアルと云われるジャンルのなかでも)通念のように行き渡っています。
が、もうそろそろ、そういう分かりやすい御伽噺(輪廻とか、肉体を脱ぎ捨てた後の魂とか)のレベルは卒業する時期ではないかと思います。

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